泉鏡花の「高野聖」は洪水を生き延びた者の顛末でもあった。訳知り顔に言っているけれど飛ばし飛ばし読み直してああと気づいただけなので、ださい。
4月に公表された第5回トーチ漫画賞、準大賞にえさしか「豪雨を待つ」が見られる。短編を3つの投稿による結果であり、なかで行者と山中の娘の奇怪な邂逅をとらえた「小岫が雉(をぐきがきぎし)」は先述の「高野聖」に取材した作品であると注記されてある。
ほかの2編(ジャンルとしての「ポストモダン文学」的な匂いをも少し感じさせる)に対して、等分のコマ割りを定点カメラに見立てるシネマらしい運動観測(「おかえりなさいませ」のシーンのはいずり方!)はあやしく、またノントーンでのハッチング/ベタによるガリガリ描いている温度感覚はペン先の強弱などという表現に依らない態度に対応していく。審査評では絵がほんとうはすごく上手いひとじゃないかとコメントがある。そうだと思う。このような「上手さ」という感想用語を禁じているゆえに私は同じ表現は採れないが・・・・もしかしたらこのペンの太さの均等はツール使用によるかも知れない。デジタル環境で描いているとすればだが。そうであるにせよ、自信を欠いてつい線を何度も描き足したり、造型をごまかそうとして何本も無駄に引いてみたりといった水準での迷いをまったく感じさせない線であるのは紛れない。こうした描線こそが、おそらくマンガにおける清書のひとつの生きた定義なのではないだろうか。
さて、「小岫が雉」のラストの処理。非常に馴染み深くも×××という造型がでてくる。あげく〇〇〇とセットで・・・。すぐさま連想されるのは90年代末の▼□▼□▼▼▼▼▼などの戯画的な様式であろう(しかしそう連想する読者も相対的に少なくなり、代わりに新しい読み手にはべつの想念があるであろう)。ここでひとはあれこれの表情をする筈だ。呆れる。フッと笑う。ちょっと困り、もう一度読み返してみる。スゲー!ととりあえず言って数分後忘れてネットサーフに戻る、あ~~はいはいそういう系ですか、などとなんだかよく判らない納得をしてみる、とうとうの。しかしこうかきたててしまうと、いかにもそれらに当てはまらない態度を構成してみせねば私のかっこうが悪いような気がしてくる。そうであるようにかきたてたので、当たり前なのだが。
作者のプロフィールに眼をとめると、
2012年、『電撃PlayStation』(アスキー・メディアワークス)の付録冊子『電撃4コマ』に、第7回電撃4コマ大賞入選作品『ちんがい』が掲載され、デビューを果たす。2013年、第8回同賞入選作品『引き念仏』
とあり、私の眼がもう一度とまる。
そもそも私はこの行者の顔が「この絵柄」で描かれたという時点で、本来必要なステップをいくつかすっ飛ばしてなにか勝手に納得を早めてしまったようだ。それが共犯性という乱暴な感覚の条件でもあれば、だ。だから、たぶんたとえばpanpanyaのキャラの身軽な独創性からはついに感じ取れない質のものを、えさしかのキャラはこういう話をこういう絵柄/顔でやることで私に向けていっぺんに伝えてしまう(こうした比較が不当なのは判っている。またどちらが良いかを言っている訳ではもちろんない)。
つまりこの行者や娘の顔つきは00年からのゲームやしかじかの美少女キャラの浜辺へ打ちあがったデフォルメタイプのコミカルへの思念や拘泥と、しかもその年代では死なずにもはや2024年にいたってなお持続的に引きずってきた絵への美意識があらためて今日なにをするかについての凄みのようなもの・・・であり(しかもこれはやはり今の絵、今の絵柄でもある!)、えさしかの応募作はあるときから生き延びた絵柄が今できることについてそれ自体で私に強く訴えかけている、と感じざるをえない。