理論的ディスクールから作品に立ち戻ったときよく起こる目まいだが、拾うべき部分を自分のキャパを超えて増やしすぎて、どこからどう読んだらいいか判らなくなる、不調になる。
私は今「雨宮さん」を読んでいる。
たとえばあらゐけいいちの好む(しばしばレトロな)小道具や配役はずっと気になっていた。すなわち「孫の手」「将棋」「囲碁」「武士」「パーマ」「忍者」など。選択の水準、嗜好の水準ではその意味はよく判る。それらはマンガとして期待されるべきワンダーへ向かって、なにか、集めておくだけで勝手に発光しはじめて「おもしろい状況」を呼びよせるために待命の任についているようなイメージたちでもあるのだと思う。こいつらがいればそのうちなにかが起こる(あるいはより多く作家がなにかをできる)。しかし・・・・その先を言うのに、わだかまりがある。ここをまだうまく私は言えない。あるいはむしろ、そうした奇矯な存在によって逆照射されるかわいさや気持ちよさの伝達のほうに。
(小沢健二「運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)」、MV内に見られるコンクリートポエトリー、2021年)
あらゐはマンガ内のほぼすべてを今やデザインの仕事にしてしまうかのようでもある。しかし、財布のチャックを閉じる絵に憑いている「ジーップ」という書き文字の形象性は作家の文字のイメージ化の仕事の鍛えられたベテランを教えてくれるものだが、それよりも店の戸を雨宮さんが開けるコマでの「ガロリ」という聞き取りの正確さが胸を打ち、
さらに各話のタイトルは文字の一部を内容に合わせて図案化させておりそれを拾う眼の楽しみもありつつ、やはりそれより買い物かごが勢いよく置かれる際の「ドッ」という文字の足がきっちりグシュッと潰れて描かれていることに喜びが多いという「私のフェティシズム」を、
作中の言葉で言えば宿題としてみたい。