手癖でいい。キャラクターの顔をまずは描いてしまう。するとそのキャラクターはすでになんらかの「性格」のようなものを携えて眼の前にいるように感じられる*1。裏から言うと、それがどんな人物かを自分でも知らないまま、新規のキャラクターの顔をすきなだけ増やすことができる、と表現しておこう。

しかしこれを、風貌に応じてキャラのタイプを割りあてるいわゆるストックキャラクターの問題、そして結局はデータベースの議論に私は早急には繋げたくない。適当に創作したキャラクターの顔は描かれるやいなや「なにか」を──ときにはひどく明白に──伝えるのだが*2、それは特定の性格タイプに変換される必要も持たない。そのとき、「顔を通じて内面を見て取ろう」という今からすれば愕然とするような欲望を丸出しにして顔の問題系の地雷をあらかじめとことん踏みぬいた筈の、観相学という分野が、キャラクターの顔を相手どって考える際には参照するに足るものとして立ち上がってみえる。鈴木雅雄『火星人にさよなら』のC=I・ドゥフォントネーの章はその重要な層を教えてくれるだろう。また、映画の理論などおそらく準備するいとまもないまま、初期のサイレント映画の展開にリアルタイムに立ち会わされたベラ・バラージュの『視覚的人間』などを読むと、映画監督が役者の顔に差配するイメージの問題がむきだしにかきつけられている。映画や舞台におけるアクターたちの顔のありかたも、キャラクターの「先行する顔/遅刻するプロフィール」という構造になにかしらのヒントを与えてくれるかも知れない。ともかく「キャラの顔が、最初」だという直観をできるだけ肯定的に考えてくれそうな議論を見つけたい、という浅ましい思いがある*3

ストックキャラクターという議論の圏内にあると、特定の顔つきは特定の性格・職業・身分・・・タイプに当たるという話を切りだすしかない。だが、なんの予断もなく手癖で描いたキャラクターの顔が、すでになにかの「振る舞い」を予告してみえるという出来事にはその範疇にもともとおさまらない地平がひらかれているのではなかっただろうか。さらに、最も重要な問題のひとつ、自分がなにも考えないまま描きはじめたキャラクターの顔が、だんだんできあがってきたときにいったい自分の手がなにを考えているのかは・・・・

*1:「その人物についてのいかなる来歴=プロフィールも事前に用意することなしに、まったく新しいキャラクター図像を描きだすことができる」という事態が歴史のある時期に可能になった、というようなことを鈴木雅雄は指摘していたと思う。それまでキャラクター図像と呼べるようなものは聖人や偉人、物語の主人公や伝説の登場人物、あるいは家族の一員や風刺の対象としての政治家などが主であって、なんの身元も持たない「白紙の人物」の絵をただ描いて提示するということは成立しがたかった、というような話だ。(ここは記憶があやしい箇所なので保留、6月22日)。鈴木の指摘の逆をとると、「プロフィール」とはキャラクター図像を描き終えたあとで遅れて見いだされる(ロドルフ・テプフェール)。こうしたイメージ=図像が先行するキャラクター生成観に、私はたぶん100%賛成できる。

*2:たしかに、「顔はなんらかの性格を喚起する」という命題と、「キャラクターのプロフィールは、図像として立ち上げられたあとでやってくる(=前もっての性格づけなどなんら必要とせず、キャラクター図像はすきなだけつくりだすことができる)」という表現との間はそれなりに深淵が広がっていると見ることもできる。ただし、どんな設定も事前に持たないキャラクターの顔を自由に作成できてしまえる、という現代的な顔の描画条件はどちらの場合にも言えるだろう。それは日夜SNSで放流されている、キャラクター名をいちいち持たない落書きたちが雄弁に示し続けている。

*3:フランソワ・ダゴニェの『面・表面・界面: 一般表層論』もあとで読んでみるつもり。