新刊。「20世紀初頭、人類のあらゆる知識を収集して分類し、だれもが利用できるようにするという壮大な夢に取り組んだベルギーの起業家、平和活動家ポール・オトレ(1868-1944)」
世界目録をつくろうとした男 | 奇才ポール・オトレと情報化時代の誕生 | みすず書房
佐藤康邦『絵画空間の哲学 思想史の中の遠近法』。最近ちくま学芸文庫に入ったようだが、2008年の改装版で読んでいる。
アルベルティ~ダ・ヴィンチという線でひとまず整理を見たらしい「線遠近法(幾何学的遠近法)、空気遠近法、消失遠近法、色彩遠近法」の四分類に入らない奥行きの表現として、著者が補足に挙げるふたつが私にも重要に思える。ひとつはステレオスコープを始めとする視差を利用したイリュージョンの系列。これは以前話の都合でふれた。
窓をプレイする──ウィンドウのデジタルな厚み - かるどろだいあろ
もうひとつは線延長がVP(消失点)に収斂しない、斜投影・軸測投影(著者の言い方では「斜投象図・軸測投象図」)の系列。著者はふれていないが当然アイソメトリックとうの事例も入るだろう。
事実、斜投象図および軸測投象図として描かれた建物や室内や机を多く画面に描き込んだビザンチンやロマネスクの絵画、仏教絵画、倭絵のような絵画は、ルネッサンスの絵画のような奥行感を生まないために、一般には平面的な絵画と呼ばれる場合が多い。しかしそれはエジプトの絵画と同様の意味で平面的と呼ぶことはできないものであって、一定の限界の中では奥行のイリュージョンを生み出すこともできるものである。
(前掲書、pp.39-40)
そしてここにはまたフルーリ・ジョゼフ・クレパンに代表される、シュルレアリストたちから「愛された」アールブリュット(仮にその呼び名を用いるとして)の表現も顔を覗かせるのだろう。著者に反対の言い方をすれば──だが結局同じことを言おうとしてる筈だが、平面的だが奥行きのある表現という矛盾撞着に魅せられるためにもこのふたつの補足が是非とも必要だった。あるいはさらに第三の、四の補足が。
「平面的だが奥行きがある」ということの極端な例は、先にふれたデジタルなウィンドウに求められるだろう。ウィンドウは重なり合うがどこまでも平面的でもある。
ここでは図を提示してべつのことを言ってみよう。ある物体の下にべつの物体がある。もしくはある物体の後ろにべつの物体がある。ある物体が自分のボリュームによってほかの物体のボリュームを隠すとき、奥行きへの通路がプリミティブなかたちで開ける。そのためには単に直交するふたつの線を描けばいい。だがここで同色であることが問題=限界になることに気づくだろう。
まったく同じ色で引かれた線に対して、特殊な条件ぬきには、線同士の上下関係や階層関係はどこまでも決定できない。とくにこうしてデジタルに厳密に同じRGBから作成された場合はそうだ。しかし文脈を考慮すればべつの茶々入れもできる。鉛筆で描かれたものだろうと、もともと十字の図形程度を見るときは、ことさら線同士に上下関係や奥行きを決めて眺めようとはしないだろう、と。線の直交という表現は、上に乗り上げたり下をくぐったりの立体交差レベルではなく、むしろ貫通という様態に近いものとしてひとは見て済ませているのではないだろうか。しかしもっと言うと、十字程度の図案は眺め方もクリシェになっていて、線同士の直交を思うばかりか、なにか最初から丸ごとこういうデザインのパックのように見てとってさえいるだろう。そのような予断や文脈にもかかわらず、十字/直交のドローイングに最小の奥行きが生まれる余地もあり続ける。そのときまったく同じ色のものでは、重なり合うことと融合することとの見分けがつかない、ということの観測上の根本的な問題と、オブジェクト同士の動的な表現の介入がそれとはべつのことを知覚的に言わせることを可能にもすることに思い当たる。