「マンガになる瞬間」などと切り出すのは、それでも気恥ずかしい。ジャンルの自律性の「屹立」(男性言語)っぷりを作品に即して捕獲してみせてから「ああこれは自律的だね、ジャンルの条件性を優れて摘出しているね」と称揚して済ませられるような時代では、今はさすがにないと思うから(他人はもっと手数を増やして、もう少しは先を行って考えているだろうから)。もう少しハードルを下げてみよう。ああマンガ読んでる、といううれしいような感触にとらえられる場所を拾いあげてみるのはどうだろう。そう、素朴に。
それでも、どこから切りだそう。「王子編」の竹井さんの見えない笑いのシニフィアンの魅力も忘れがたい。この連載を通じてマンガの上に定着された上一段の横に長い見開きの効果にもなにか言ってみたくある。だがここではべつの例をふたつ挙げよう。
(衿沢世衣子『ちづかマップ』3巻、p.4、小学館、2015年)
『ちづかマップ』の3巻に収録されている「むさしの編」で知らない人物がいきなりでてくる。学園祭の出し物を準備するべく、井の頭公園における犬の散歩数を調査する流れでちづか・ネオくんとともにいる、軽くポンパドール風に前髪をアップして見える猫目の人物が。こういうとき読者はただちに状況を理解して、未知の人物がすでにちづか・ネオくんと旧知の仲なのだとさっさと承知してしまう。そうして、具体的な関係性をさらに知ろうとページをめくる。私もコマを追う。どうやら彼女の名前はあまねというらしい。かわいらしい天文台ずきの弟くんもでてくる(天文台の登場で、同著者の『ベランダは難攻不落のラ・フランス』所収の「リトロリフレクター」をもほのかに想起もしている)。こういう流れが私にはたとえばマンガという感じだ。連載ものではよくあることで、それまで話にのぼったこともないけれど前から主人公の友達・知り合いだという人物のニュアンスを、初対面ですでに私がたはある程度判断し、呑みこむ。そんな時間のなかにマンガを読んでいるという、ブレスがかさつく。
「なんかうまくいかなさ」というシチュエーションもこのマンガは豊富だ。端的に言えば「名所めぐり」に類したことをしても、同行者から色よいレスポンスが返ってこない姿が印象に強い。事情がありあまり元気のない子を連れて実在の名所や遺跡をドライブしても、とんとん拍子に喜ばれたりはしない(しかし逆に反感を買うこともない)。そのような当たり前の描写がジャンルコミックの枠組みを通して読むとき、意外性としずかな充実を与えてくれる。
2巻の「青梅編」で果物屋のミサさんとリクくんに対し、ちづかがドライブコースを考え、出かける話が上に述べた内容に当たる。成木街道の石灰採掘跡をちづかが張り切って案内する。だが、林の奥にはなにもなく、土地の住人に同情される始末だ。引き返してきたばかりの車内の3人の顔を見てみよう。
(衿沢世衣子『ちづかマップ』2巻、p.36、小学館、2013年)
ちづかは当てが外れた思いを表情に反映して下がり眉だ。ミサは「次 行ってみよー」とポジティブに見える。しかし特段の驚きや楽しさを採掘跡からは得られなかったことのフラットな反映でもあるだろう(リクと無事にドライブに来れただけで今日はもう目標達成だと感じているのかも知れない)。リクは「犬 かわいかった」と一言だ。遺跡には最初から無関心で、実際に現場にもリクの見るべきものは見当たらなかったのであり、しかもその場で出会った住人の連れていた犬がかわいいと思ったことも事実だ。一方、その全身からはゲーム機に半ば意識を集中させていることが判る。顔の表情は運転席のミサと対照的なようで、実はかなり近似した内面のフラットさに依ってもいるように映る。だからここには「がっかり」と「よろこび」、「どうでもよさ」と「それよりこっち」という多彩な気持ちがそれなりに複雑に反響していると見なくてはならないだろう。そして一般的に、私がたが毎日くぐっている大小の出来事はこうした表情を私がたに要求しがちでもある。このあとリクは自分で見るべきものをミサの横顔の向こうに見つけだし、ひとつの定型的な後日談を結ぶことになる。私はこの感想をいっときかくべくコマを戻り、巻を戻す。