闇の精神史(木澤佐登志)を読んだ。なにか思ったより実直で手堅い書き物という感想を抱いた(著者には不本意かも判らないが・・)。いわばジャーナリスティックな側面のほうにこの著者の美質があるように感じるが、それも再び不名誉な評価に聞こえるだろうか。
サイバースペースに関する記述はそのネタの拾い方の美味しさによって全体的におもしろく読んだ。ジャロン・ラニアーと「からだ、うざい」VR零年(その印象的な電話回路の失調した町におけるテレコミュニケーションの挿話)、ポピュラーミュージックで長く大人気なヴォコーダーのそもそもの暗号装置としての生成秘話、否応なしの偽装とともに宇宙に向かうアフロミュージック、サイバースペースへのLSDほかあやしげなカウンターカルチャーの協賛、スラヴの不死論と霊性などなど。おそらく批判的相対的に検討されるほどトラッシュ&ゴシップなものへの俗物的な愛の裏打ちを嗅ぎとられかねないようなネタ群の操り方において、再度言えばジャーナリスティックな筆が相応の鎮静作用を与える。たとえば次のような「見解」のつけくわえ方、ネタの解毒・発酵のさせ方、思念の温度感など。
美術史家の近藤銀河は、メタバースによって自らの身体から解放されるどころか、逆説的にも自らの身体が亡霊のように顕在化してくるケースについて報告している。
筆者は筋痛性脳脊髄炎と呼ばれる病気を患っており、体幹を維持したり座位を保つことに困難がある。このために頭部に装着するデバイスの重量に長時間耐えることができない。VRが要求することの多い両手のトラッキングを用いた操作も、身振りを伴うためにすぐに疲れてしまい、VRを長時間使用することに難しさを覚えている。
すべての人間にメタバースが開かれているわけではないのかもしれない。むしろ、そこでは健常的=健康的な身体こそが暗に前提とされている。VRはメタバース外の身体が健常であることを要求するからだ。(……)
(木澤佐登志『闇の精神史』「4 メタバースは解放か?」、なお強調は引用内引用文を示す)
レーニンの追悼演説でスターリンの口からでた「共産主義者の遺体は腐敗しない」というフレーズが本書の終章で引用されており、それに対しては、最近読んだべつの本にあった「死骸さえあれば、蛆虫にはいつも事欠くことはない」(レーニン)がオートマティックに呼応した、とつけくわえておきたい。