そういえば中尾太一がどこかで、作品としての「完成度」で詩集や詩人を「評価」することにはもう興味がない(いい詩・悪い詩・・・しかし、生)というような意味のことを述べていたと記憶して、よぎったりする。つまり私自身がこの本の本文に面会するより早くああこれをあのひとが読んだらどう応答するだろうというように他者の反応を想定してしまう。当てにしてるつもりでなく、べつに言葉を持てば「焦り」に近いものかも知れない*1。
少しづつ大きく読んでいる(単に少しづつ読むというとまるで数ページを単位としたように思わせかねないから、こうだ)。
文章の論理性をがんばって追う前に、「短な」「(ら)」といった言葉遣いの脈、動詞の連用形名詞化の持ちこみかた、「~していける」という表現の「いける」にあらわなひそかどころでない肯定性の開示など、その原稿に入る前からよくよく身についていた、準備してきたと信じさせるがやはり当の原稿を記す段がなければありえなかっただろう文づくりがまずある。その文づくりのぬしとして山本の文を私は見つけさせられる。
書き手はあるとき持続という様態を見つける。そこからさまざまな提言が発生できるようになる。
その意味で、環境内の不変項を探索する身ぶりと、「私が私であること」を操作し進化させることは、自らの条件としての空白を介して、相互に推し進められる必要がある。つまり、朝に見たねこと、夜に見たねこが、まったく別のかたちをしていながら同じねこだとわかるには、私もまた私である必要がある(図11・12)。
(「新たな距離──大江健三郎における制作と思考」p.139、注54から。なお強調は引用者による)
注のスペースに、山本のうちのねこの二葉の写真が載っているがすごい。
小説は、なぜ、言葉のみを不可欠な素材としているふうに装っているのか。
(「新たな距離──大江健三郎における制作と思考」p.94。強調は原文では傍点)
*1:この私自身のXな焦りは、山本が本文に残した「ぼくたちは、しばらく焦らないといけない。」(「新たな距離とはなにか──いぬのせなか座の開始にあたって」)というなにか後ろ髪を引かせる層、そしてその層に共闘を持つ層・・とは結局すれ違う。