その時、ウン、「その時」ってベンリ、ベンリ、どんな奇蹟が起こってもふしぎじゃぁないもんね
/北川透「天狗ちゃんと目覚まし時計」
そうかも知れない。だが「その時」という直叙が今日という日はとりわけあっちに行っている。ここが「その時」の筈なのだが・・? つってもさあ、だからどうしたとアリソン・アトリー『西風のくれた鍵』(石井桃子・中川李枝子訳、岩波書店、1996年)に「雪むすめ」という一編を取りだす。「ファンタジー」は可能なかぎり寒い土地のことを読み手に思い浮かべるよう訴える。ファンタジーはいつもそう。とても北の・雪の・氷の国があったと言い、読み手はその悪びれない声音に対応して青かったり黒かったりしたがる。眼にあかりを落とし、あかりに眼を上げる。氷は今も属性なのか。
北風は、王たちの住む、はかりきれないほど大きな白い宮殿の角かどをめぐって、ひゅうひゅううなりながら走りまわり、金切り声をあげて煙突から中へとびこみました。すると、そこでは、火とそっくりな赤い光が、ぱっとおどりましたが、その光は、すこしも熱をもっていませんでした。
(「雪むすめ」pp.37-38、前掲書)
そんなとても北の・雪の・氷の国に宮殿があると話は始まる。王と女王がふたりで住んでいて、その細々とした心中が「冷たい領土」という作品舞台の紋切り型のコノテーションにとりあえず帳尻を合わせる。そこで上記の引用において、北風が文中に姿を現す。この段階では北風は動物として語られているから、色鉛筆で荒く吹いたような線の生物として私は適当に流しているだろう。
北風は、宮殿の天井の、白い花を彫りつけてある雪のふちかざりを吹いてまわり、ほほをいっぱいにふくらませて、巨大な氷の壁画や、あちこちにかかった絵に息を吹きかけました。それらの絵には、水晶のようなシダや森が描かれ、また南の国ぐにの、あらゆる美しいものが、氷の女王をよろこばせるために刻まれていました。けれども、王と女王は、北風のいることには知らん顔でしたし、北風が毎日かきかえる絵についても、すこしも気にとめていないようでした。
(p.38)
その即座、動物として見ていたものに「ほほをいっぱいにふくらませて」という措辞が使われる。この表現は続く「息を吹きかけました」という曖昧に妖精的な動作よりはるかにラインを超えている。だからさっきまでイメージの上に仮づくりしていた「線の動物のようなもの」にかえて、ぴちっと張った、まるまるとした頬を持った生き物を生成しなくてはいけない。しかも頬の描写にふれられると、単純な目鼻なども要請をこうてくる。こうして私の北風像はやなせたかし的な造形へと更新される。さてこのあといくらもしないうちに今度はこう言われる。
北風は強く、りりしく、夜のような深い青い目をした若者でした。
(p.38)
修正ではもうきかない。北風=線の動物と、その修正像すなわち北風=やなせたかし的キャラクターはここで私の眼の前で破棄され、この行がずけずけと読者に対して定義してくる北風=ロマンスの主人公という像を新たに立ち上げる必要に迫られる。北風は実は話の最初からこのような「若者」の姿としてあったのであり、文章がそれをいきなりは明かさないで徐々に人間寄りの描写を増やすという「楽しませる叙述」をとったのだと言われれば反対するいわれもない。それだけにしかし、この短期間で(ページの上ではたった2ページだ)その像を幾度も修正させられることには落ちがつかない。像が、次の文章ひとつであっさり一変することは予期できなかった*1。冒頭の引用にかこつければ、「その時」をどこで迎えるかを文章は(そしておそらく「+私」も)約束しない。