話が通じそうというキャラクターがいるとする。そいつの名前が【話が通じそう】なのだ。話が通じそうが生きている。姿までは想定していないが、たぶんあの溝がついた薔薇色の石鹸に似た人間みたいなやつだろう。そんな話が通じそうとはべつに、話が通じそうという一般的な言い回しが日本語にはあるようだ(いや、ここから話が通じそうという人名が転がりおちたのだが、順序は)。で。話が通じそうにこちらから話しかけようか迷いながら、でも、あ、このひとは話が通じそうだ、と思う場合ももちろんあるだろう。話が通じそうに見えるということだ、そいつが。が、それと同じくらい、実際に話を始めたあとでこのひとはやっぱり話が通じそうだ、という感じがでてくることもある。つまり、よその意味ではもう話は通じてる訳だ。だったらなぜその上で・・・というと、話が通じそうというのは、味方してくれそう、無害そう、ふいに突き飛ばしたりはしなそう、という心の計略まで含んで使われる言葉だからだ。すぐほっとしたがるからだ。話が通じそうと話が通じそうだと。話が通じそうは、話が通じそうだと──
たしか昔現代詩手帖のどこかで、天沢が、ジュリアン・グラックの散文その風景の繁茂につりあいをつけるフランス語にふれながら「道」を、書き物の上の生き物としていたのではなかっただろうか。グラックの散文を日本語訳で引いてみよう。「街道のすぐ近くを並行して走る丘がこちら側の眺めをさえぎっていて(……)」*1。「並行して走る丘」のごとき文章に擬人法の臭みをいまさら感じずにいられるのは、なにも通俗化形骸化した表現だからではなく、道というものが、そこをすぎていく具体的な運動主体のすでにして散らかり地だからなのではないだろうか。簡潔に土地を把握し、試しのように道ゆきを語ろうとすると、四肢なき地面も文においては動作主だ。指し示す道を、語り手がすでにある程度運動済みだからだ。道はもう運動する。また、自分ではないひとびとの、道をすぎるという運動の記憶が揮発し籠ってもいるからだ。
それで、丘は街道と並行して「走る」し、脇道は村落の入り口で「引っこむ」。天沢も、「小みち」は「まっ黒な林へ入」るとかく。「木立の間へもぐりこんでいる」と、かく。そこで天沢は少し離れたところから道の略図を指し示すことと、その道のなかをうんうんうん歩きつつある自分とを同時につかんでいただろう。
荒地のみじかい草はだんだんまばらになり、ぬるぬるした赤土の肌がむき出しで、かわりにほねばったすこしせの高い草が、くらがりの中であちこち風に音もたてずに立っていた。そしてまもなく、小みちは急に左へ折れて、まるでまっ黒な林へ入ったのだ。
それはずいぶんせの高い杉の林で、まわりはにょきにょきと上の暗がりへ突きのぼるふとい幹ばかり、葉ははるかの高みにしげりあって、まっ黒に空をかくしている。
(天沢退二郎「夜の道」、『ねぎ坊主畑の妖精たちの物語』、ブッキング、2005年、pp.34-35)
でも、この道路はおれとは関係ないのだ。京志はすこし足どりをゆるめただけ、立ちどまりもせずにその道をよこぎって、向う側の、いまきた小みちのつづきが木立の間へもぐりこんでいるところへ進んでいった。
(同上、p.56)
そして天沢はせを平仮名にかき、ほねばったすこしせの高い草、ずいぶんせの高い杉の林、と平仮名なかまでその前後を埋める。すると、どうしたってこれは「にせ」と読むはめになる。そんなの無理だと言っても無駄だ。にせ。にせだ。森のせはにせ。
今まで結びつけて思ったことはなかったが宗左近の『炎える母』と天沢の児童文学の層、戦時下の、火の恫喝の・・・による体と言葉の被った/対した変形の経験は、あるところで深く染み合うように感じた(宗左近は仏文学を多く訳しているし、そういえば宮沢賢治特集の『國文学』で70年代には天沢とも対談をしていた)。
フライパンのじゅわじゅわとねっした油がぱんと飛んで眼に入る。あ!と声をあげてうずくまり眼を覆う、そのあ!の複数の残響が、あ!の痛みのようなものが、この短編集のそれぞれの(だが私の)あられもない、声もない、結語となっている。
*1:ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』安藤元雄訳、岩波書店、2014年、p.20。今この書誌情報を、アルゴールの庭にて、とかき損じしていた。このためは。