天沢退二郎『水族譚 動物童話集』、ブッキング、2005年
物語の終わりにオープンを架ける*1にはどうすればいいか。オープンは読者の撤退できなさ、帰れなさに関わる。死ねなさ、眼を閉じられなさに関わる。運動図式の上ではこれを固まってしまうと言いえる。読み終えようと文字から身を引こうとする動きでそのまま向うへぶすっと入ってしまう。運動図式の上ではこれを転んでしまうと言いえる。天沢の児童文学を読むとひとは固まったままさらに転んでしまうような思いをするだろう。転んで、固まってしまうのではなく。固まって、その動けない自分のなかのなにかがさらに転んでしまう。内臓がさっと変色した。
物語の終わりでオープンが架かるには終わり間近になって新しいことが始まる*2、という風なのでなくてはいけないとは思わないけれど、『ねぎ坊主畑の妖精たちの物語』や『闇の中のオレンジ』やそしてこの本のいくつかの局面でねばねばした道具がひとの眼を絡めて最後の息とともに飛ぶように、とてももう間に合わない場所から真に新しい挫折が切りだされる(この切りだすというのは開始の意味と掘削の意味を二重にこめてある)。「蛙と青い《しるし》の宝石」における「わたし」という急所、そして「迎えにきたカモメ」「海べの蟻」「蛙の歌」などは、作品ごとに敵対関係を変える生き物たちそれぞれの、もう間に合わない場所からなにも考えないほどに打ち寄せるオープンの響きになっている。