農民芸術概論、レコード交換の規約を記した文面、小学生時代の国語帳、句稿、肥料に関する学術論文など雑多な資料がおさめられた『宮澤賢治全集 12』(筑摩書房、1968年)に、「『旅人のはなし』から」という手帳にかきつけられた小さなストーリーを発見する。すばらしい。
語り手は「ある旅人」の話をしようとしている。その際これから起こす物語には「他の本の話」も混じっているだろうと前置きする*1。期待を誘う言い方ではないか。そうしてわずか4ページほどの尺のなかに、鴨についての禅問答のような話、「『戦争と平和』と云ふ国」に行った話、大道芸のような乞食坊主の話、イタリヤのサンタリスク先生の話などが脈絡なく続かされる。書き手=宮澤賢治があちこちからおぼえたり即興的にこの場で創作したりうろおぼえでなぞったりしたであろうエピソード群が、単に「どこそこへ行った」というアクションの共通項のみによって「旅人」を主語とする地続きのナラティブであるかのように並置され、話のたねを育てていくことに成功する。旅人は話のついでで死んでさえいる*2。旅人がイモータルな身分にあるというよりは、端的に、語り手があちこちから収集したエピソードを今思いだせる順にばらばらと手繰り語っているだけだ、という言述のステイタスをじかに反映した結果だ。そのなかには誰かが身代わりに死んだという話もあった、ということを、ここで旅人をただひとつの主語に代入した効果として。
だがこの話は最後、唐突に「盛岡高等農林学校に来ましたならば、まづ標本室と農場実習とを観せてから植物園で苺でも御馳走しやうではありませんか」という新入生向けのパンフレットのような文句が現れることでそれまでのストーリーのステイタスを宙に浮かせる。そして改行があり、すぐ続くほんとうに最後の一行:「新しい紙を買って来て、この旅人のはなしを又書きたいと思ひます。」という創作精神の延命を(できるだけ気楽に見えるように)つとめる一文によって、前行の不思議なパンフレット的文面そのものをも宙に浮かせ、私がたは「話ができる」という夢の二重の意味を垣間見、自分が一行前でした話をもう忘れうるという幸運をのぞき見、結局こういう話を愛する。