宮沢賢治「楢ノ木大学士の野宿」の初期バージョンとして「青木大学士の野宿」という作品があった*1。この青木大学士は推敲と改稿を経て先述の楢ノ木大学士という新しいキャラクターに「転生」したという訳だが、天沢退二郎はこの「青木大学士の野宿」の元原稿を調査することで、原稿用紙の裏面が「風の又三郎」ほか著名な物語の草稿に再利用されていることに着目することができた。天沢によれば、全集からも「ネグレクト」されてきた「青木大学士の野宿」という無名の作品は、その裏面=我が身を提供することで、「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」といった大きな作品群をまさに「裏から支えて」きたというのだ。
(他作品の、「青木大学士の野宿」裏面の各転用状態をとらえた図。天沢退二郎「『青木大学士』の運命」、入沢康夫、天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』、青土社、1990年、p.187)
原稿の裏を再利用することは一般的に珍しい営為ではないだろう。けれども、たとえば「青木大学士の野宿」の冒頭から6枚目までの原稿の裏に、「銀河鉄道の夜」草稿がかかれ、しかし今度は「青木大学士の野宿」では6枚目にあたる原稿から出発して「銀河鉄道の夜」草稿の1枚目から7枚目までかかれてあったことは、ある作品の向きに対して逆行するようにべつの作品が進行している書記状況を示す。この逆行の運動に、作品内在的なある情緒を感得したくなることもたしかに否めない。
それだけでなく、転用は、原稿の裏と表の作品の執筆時期や成立過程を相互に拘束的にし、第三者に「それがいつごろかかれたのか」を把握させるヒントを与えるだろう(全集制作の過程で天沢と入沢は幾度も助けられた筈だ)。さらに、一篇全体がほかの草稿と一対一で裏表を共有している訳ではないから、時間系列は複数の、きれぎれ、ばらばらな使い回しのもとに支配されている。だからこれは単純に、ふたつの作品が同じフォルダを共有して保存されているようなことでもない。A作品のある個所をT作品の途中がいくらか借り、J作品の「飛び飛び」の草稿がまたいくらかもぎとっている、ということなのだから。そしてなにより、書き手自身の「印象」に対して、原稿の転用は陰に陽に力を振るっただろう。転用は、ある作品をもうひとつの作品の流れとともに視野にいれさせる。それは、ひとつの同じ原稿を介して無意識でモチーフやキャラクターが浸透し、影響することを助けるかも知れない。もう少し踏みこんで言うとさまざまな次元での「取り違え」を自分の手に、許しやすくするだろう。
原稿用紙における裏表での別作品の同時進行という事態・・・・と、以下に図で掲げるように、ひとつの作品に視野を限定した際に見えてくる改稿による地層化・歴史化という事態の、錯乱した重ねがきの運転速度を溶かすペーパードライバーの視野において、かつて取り交わされた異稿論はぎらぎらとウニのように尖って輝く可能性を見せた筈だった。
(推敲・改稿状況に応じておよそ第四次過程まで見ることができる「銀河鉄道の夜」の、各バージョンにおける原稿の増減・位置変更などの流れ。「討議II 銀河鉄道の『時』」、同上、p.131)
*1:「楢ノ木大学士の野宿」のほうは青空文庫にも登録があり読むことが可能。https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/46608_32662.html