クレチアン・ド・トロワの『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』(12世紀)を中心紋とし、『パルチヴァール』(エッシェンバッハ)、『散文ランスロ』(作者不明の『聖杯の由来』『メルラン』『聖杯の探求』などを含む)など、中世に集中的にかき継がれた一連の聖杯探求譚について、天沢退二郎は早くも1963年のジュリアン・グラック論「シュルレアリスムの継承」のなかでいつもの好奇心旺盛な顔つきで筆を割いている(1972年出版の『紙の鏡』所収)。聖杯物語に対する天沢の夢中はこれ以後も持続し、折々の散文・エッセイに語り場所を得、やがては聖杯物語のひとつ『聖杯の探索』やフラピエの聖杯物語論『聖杯の神話』の翻訳を手掛けることへと繋がっていくだろう。
天沢がその初期には、泥の海をひた掴むようにかき走る詩作行為と聖杯物語というレシを「探求」という主題によって大まかに結びつけて自身の動機をひとに呑みこみやすく聞かせていつつも*1、明らかにその夢中は宮沢賢治の異稿状況への熱意と嚙み合っていたように私には思える。宮沢賢治の物語が「単独の作者」による「複数のバリアント」を第三者に攻勢しかけるのだとすれば、聖杯物語は「複数の作者」による「無数のバリアント」を後世の読者に広げてみせるような異稿状況のからさわぎだったろうからだ。
聖杯が通過する。食事は聖杯に明るむ。おしゃべりは今優位にある。すべての期待がただ一言の質問にかけられる。どの要素も、ほかのものの疑似餌のようだ。宮沢賢治の童話群と中世の聖杯物語群を、異稿状況という側面から、そして言葉に差し向けられた疑似餌という角度から、これからは読み返してみなくてはいけない。
そしてまたこの場面全体が食事の間に経過することになっていることに留意しよう。この事実はこれまで聖杯行列のキリスト教的もしくはケルト的なすべての解釈の基本となっていた(周知のごとく、前者はそこに専ら聖餐儀式を読み、後者は全く世俗的な食事の給仕情景ととる)。《質問》の主題の点からみれば、会餐というものはつねにお喋りの機会として絶好のもので、客の気持をほぐし、こだわりなく《質問》を発しやすくするものであることに注意しよう。漁夫王は、宗教的典礼儀式の如き近寄り難い荘厳な雰囲気の中でではなく、食事の間のフランクな、開放された会話の中で、問題の《質問》が発せられることを期待し、望みをかけたのである。
(天沢退二郎「『聖杯の物語』における《質問》の問題」、『夢魔の構造』、田畑書店、1972年、pp.301-302。強調は原文では傍点)
*1:『ペルスヴァル』における漁夫王の「姿の見えない父」のモチーフも、やはり当時から天沢が強く依拠していたモーリス・ブランショの不可能性、不在、盲目性といった19世紀的な文学・思想の枠組みと共鳴して感じられたのではないかとも推測できる。評論集『幻想の解読』(筑摩書房、1981年)に収められた「漁夫王とその父をめぐって」では、集中的に「漁夫王の父」という奇妙なポジションに思考を投錨している。