世界文明のシンポハッタツカイリャウカイゼンがテイタイすると──宮沢賢治「鳥箱先生とフゥねずみ」

教育者がいて、言うことを聞かない生徒がいる。教育者は「鳥箱」*1だ。生徒はフゥ(フウ)というねずみだ*2

前段として、鳥箱のなかでは三匹のひよどりの子供が死んでいる。ほか、一匹が「猫大将」にさらわれ、おそらくどこかで食われている。教育者の、鳥箱という「身体」は結局墓場・病室・牢獄に機能の上でごく近い建築物としてある。この建築は収容したひよどりを生かすことに無力であり続ける。猫大将にひよどりをさらわれた失態から、鳥箱は役立たずと判断される。薄暗い物置の棚に仕舞われる。そこでねずみの母子と出会い、母親から子供のフゥの教育を頼まれる。教育者は自信を取り戻す。ひよどりの四匹の子らはいずれも、教育者の回顧のなかでは「安楽に一生を送った」とされる。

物語はフゥねずみを自分好みに教化できず癇癪を起こし、退学をつきつける鳥箱の前に、「嵐のように黄色なものが出て来て」、ひとつの官僚的な寓話装置を発動させるうそ寒い台詞とともに終わる。

 

なにがくだらないのか。教訓がくだらないのか。オチがくだらないのか。教訓でオチているからくだらないのか*3。オチという様式を取りだすのがくだらないのか*4。つまり読者がくだらないのか。そうさせずには読ませない作品がくだらないのか。教訓がくだらないとすれば教訓の中身がくだらないのか。教訓のスタイルがくだらないのか。教訓を引きださせる本編がくだらないのか。そもそもあれが教訓なのかと問うことはしないとして、教訓と本編が関係づけられることがくだらないとしたら、その関係づけ自体がくだらないのか。関係づけられた先の教訓や本編の内容それぞれがともにくだらないのか。教訓をそのように関係づける作者がくだらないのか。教訓ありきの本編がくだらないのか。書記行為の先に結果的に教訓を出現させた作品行為がくだらないのか。作品のある部分だけがくだらないのか。始終がくだらないのか。くだらななくはない全体がくだらない一部分のために結局くだらないのか。

教訓や、教訓の内容や、教訓によって教化しようとする効果を狙おうとする意識は、たしかに個々に相応にくだらないだろうにせよ、教訓=異物を差しこむという操作に可能性はまったく見えないだろうかと考えてしまう。異物としての別次元の論理があるとき作品に乱暴に闖入してくることには、可能性があるのではないのかと思う。作品の同一性や作品空間の保全の度合いとレベルや質を異にする教訓=モノリスが、テキストとして垂直にいきなり降りてくるという状況から、風刺ものや寓話をとらえ返すことには。なんとなくで言うのだが、教訓がおうおうにしてテキストでしか代行されないのがよくないのだろう*5。言葉ではなく、教訓的な行動、寓話的な身振り、風刺的なアクションといったものがあるのだろう。「鳥箱先生とフゥねずみ」に即してみれば、教訓は台詞とともに、「嵐のように黄色なもの」がなす、生死を執行する電撃的なひとつの行動によっても言いおおされ、それがためにくだらないだけではないものを私にまだ垣間見させている。

*1:「鳥かごと云ふよりは、鳥箱といふ方が、よくわかるかもしれません。それは、天井と、底と、三方の壁とが、無暗に厚い板でできてゐて、正面丈けが、針がねの網でこさえた戸になってゐました」。宮沢賢治「鳥箱先生とフゥねずみ」、『【新】校本 宮澤賢治全集 第八巻 童話I 本文編』、筑摩書房、p.169

*2:なお、新校本全集では賢治の「ねずみもの」が続けて収録されていて、「『ツェ』ねずみ」のねずみとりというキャラクター、「クンねずみ」の天井うら街の動向など、ほか作品とのモチーフの関連が見やすい。

*3:倉橋由美子『大人のための残酷童話』は記憶によればまさに教訓テキストの太字強調によって毎話しめくくられていたと思う。

*4:故事成語やたとえ話がその話の全体でひとつの比喩となり言説効果を表現してある場合──どこか一部を引きぬくと瓦解するような塊としてのテキストの事例なども考えると複雑になってくるだろう。

*5:宮沢賢治「蜘蛛となめくじと狸」を参照。