宮沢賢治論点三つ覚え書

◆「ビヂテリアン大祭」および初期稿「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」

「ビヂテリアン大祭」は冒頭で「菜食主義者」に対して「菜食信者」という呼称を提起している。たぶん誰でもいっぺんは考えるところだと思うが何々主義者という呼称は強すぎる。主義者という存在的身分は本来おいそれとは持ちだせまいし、誰かに付与することもできまい。できまい筈の、その身分的過剰をあてにして相手陣営を打撃するべくやつらは何々主義者という具合に濫用されることになっている。主義者呼ばわりすることはもはや戦術以前に手癖や体質のようだろう、現代では。一般にそうした手癖や体質はカジュアルと言われている。また、主義(のひと)と主義者の差異も、日常的にそう勘案されて使い分けられていると思えない。自分含め。そういうことはとりあえず念頭にある。

肉食主義を考える特集の「現代思想」(2022)などを読めば、またべつに、あるいは率直な方向に考えが向かうかも知れない。しかし「ビヂテリアン大祭」というお話を考えようとしてすぐヴィーガンや生殖や反なになにの問題に思考を誘導されること*1にふんばってこらえたい気持ちがある。だから、私はまず題名に「大祭」ともうけられてあることに注目している。「斯う云ってはなんだが野球のやうですが全くさうでした」*2。場所も変わる。「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」では日本の花巻温泉が大会の開催地であったようだが、「ビヂテリアン大祭」では場所はニュウファウンドランド島の小さな山村ヒルテイの教会とされてある。議論=祭りは国を越え(作品では間-原稿的に・・?)移動できる*3

表記の意図せぬ工夫のせいか、題名は初見時から私にはビリジアンの懐かしい響きを介在して想起させられる。

◆韻律

大正五年作の「家長制度」*4について「これは異様な文章である──散文ではない、まったくの律文なのだ」と菅谷規矩雄は指摘したが*5、私がたもそこにひとつの動揺を共有することができる。散文と思っていたら・・・という戦慄はあけすけに言うなら心霊写真に気づくのに近い。この掌編が7・7律(5音のブロックも入っているが)で刻まれた、モダニズム以前の日本の韻文詩のコンテクストを不気味になぞってもいるテクストであることに気づかず、看過するなら、どれほどこの作品の描写や筋を云々しても結局は菅谷が意気ごむ通り「読めていない。」ということになるかも知れない。

しかし同時に、このような律文と散文の違いを「意に介さない」ようなパターンは宮沢賢治の童話群で相当の範囲を覆っているようでもある。「北守将軍」の韻文形と散文形とで明確に作成し分けられたと理解されているケースが判りやすくそうした境界画定の端にあるにしても。韻律という課題にとってクリティカルなのは今も昔も「歌」だけれど、まさに童話内にでてくるさまざまな「うた」を対象にすることでその問題にもっと溝を与えることもできるだろう*6。なお宮沢賢治論とは関係ないことだが、最近読んだ『昭和文学研究』誌上の座談会*7で菅谷の音数律論が先駆的な仕事としてサウンドスタディーズの文脈でふれられていた。珍しさもあり少し驚いた。『詩的リズム』はもう一度追って読んでみたいが非常に苦労するだろう。

マルチバーススターシステム

「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」で重要な問いを担う鴇(とき)から出発して、入沢康夫はこうした「『空間の変質』の直前に現れる鳥」を賢治作品からすべて拾い集めて細かく突き合わせてみたらどうだろうか、と提案している(入沢康夫「鴇という鳥」)。私が思うのはけれど、鳥などなんらかの生物単位ではなく、いわば文飾単位、言い方単位、言葉遣い単位でのキャラクターによるスターシステムのようなものだ。言葉としてのキャラクター、または、ひとつの文章表現が個体化されて作品間をワープしてあちこちで出くわすことができる状態を見ている。それは「氷と後光」から「銀河鉄道の夜」までに顔を見せる「苹果のにほひ」といった言い方だとか、「ひかりの素足」や「土神と狐」とでは正反対の文脈をしょった「かすかに笑ってゐ」るような死体の表情、でもありうる。「苹果のにほひ」という言い方は、すでに「苹果のにほひ」というひとつのエージェントとして童話上を歩いているという考え。これは第X次に渡る改稿、異稿ごとに「その都度の」作品の完成、区切れない自己引用から生じてくる現象なのではある。ともあれ、特定の生命ではなく、文レベル名詞レベルで認知できる言語表現という身なり、つづめて言葉のキャラクターだからこそ、べつべつの作品にふと現れてそのまま場所をえることができている。そんな事態に期待を寄せている。

*1:芥川龍之介「河童」が反なになにの議論に「参照」・・されたり「補助線を引かれ」・・たりされるのと同じ水準での抵抗感による。

*2:宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」、『【新】校本 宮澤賢治全集 第九巻 童話II 本文編』、筑摩書房、1995年、p.243

*3:小泉義之「競技場に闘技が入場するとき」(『闘争と統治 小泉義之政治論集成II』所収)をここでうまく読めたりできないだろうか?

*4:青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43036_17949.html

*5:菅谷規矩雄『詩的リズム 音数律に関するノート』、大和書房、1975年

*6:「種山ヶ原」のふくろうの歌の推敲過程など、書き換え行為がときにうた内容・うた旋律に及ぶことをたしかめるのもおもしろい。『【新】校本 宮澤賢治全集 第八巻 童話I 校異編』参照。

*7:福田貴成、中川克志、疋田雅昭、広瀬正浩「座談会 『音』と文学──文学研究とサウンドスタディーズとの対話」、『昭和文学研究』88巻、昭和文学会、2024年。https://www.jstage.jst.go.jp/article/showabungaku/88/0/88_2/_article/-char/ja/