仁菜に険

井芹仁菜のフィギュアが発表されて以来その顔貌の険しさについて、ちょっとした言及が増えているようだ。

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アニメ本編での仁菜はたしかにある種のほのぐらく、険しい、毒におぼれたような色合いを見せるときがある。顔つきの水準でだ。それについて実のところ私に最初にやってきた表情の記憶は、90年代から玉置勉強が綴ってきた(すすってきたと読みを与えそうになるが)少女たちの険しい顔だ。そのカスも唾もパンツの染みもざらざらとなすりつけながら刻印されたような紙面の面影は、同時代の沙村広明冬目景からは感じられなかった、「原稿に向かった際のマンガ家と雑誌で読みつける読者があたかも同じコンクリートの粉塵を浴びているような」幻想を私に与えた。それはことに破廉恥な粉塵とでも言うようなものだった。

90年代終わりの関係性の「恋人プレイ」から、眼の下の重い隈+まるでキャラに赤面させることに耐ええない心情の裏をあらわすような過剰な赤面の「東京赤ずきん」「ねくろまねすく」(コミックバーズの名は私のなかで玉置勉強のものだった)。安倍吉俊というよりはその後の器械=秋田モルグの少女像に養分をひそかに届けたようながりがりの身。90年代から00年代にかけての顔の険しさの「険」。今村夏央米倉けんご)の「ファイヤーキャンディ」のあの「切断」は効いた・・・・その効き方など今となってはとても回収不可能に思える。「エイリアン9」(富沢ひとし)とは異質の、しかし悲しいばかりに90年代の体臭を帯びた切断描写・・・・。ああ、ガールズバンドクライからどれだけ離れられただろうか。これはもう誰の、なんの話か。

 

こうして玉置の近作を今読みはじめ、いろいろなことを思っているところ。