おおフケー!

魔法の指輪 ある騎士物語(上・下) | 幻戯書房

おおシュトルム!

従弟クリスティアンの家で 他五編 | 幻戯書房

とびっくりしてたらこれらはルリユール叢書というシリーズの一環で出版されていて(知らなかった、いやウルフのフラッシュがでてたのだけは知ってた)そのラインナップをたしかめてもっとびっくり

まるで80年代のような瀟洒な企画でわ(すみません嘲笑的な意図はぜんぜんないです

かつては潤沢な予算をバックに可能だっただろうことを今の情勢と条件でこうして掘り下げる場所やひとがあるかと思うと

とか

で今月はロドルフ・テプフェールも叢書に一冊をくわえるとのこと。

マンガではなく小説が・・!

 

びっくりですね

 

book.asahi.com

Live2Dオンリー アアーそういうのもあるのか

それはちょっと見たくなっちゃ

alive 2024 – 2024年12月13日(金) @秋葉原UDX | Live2D Cubism

 

もうすぐでる文藝はゲームの小特集(買おうとしたらまだ先だった

文藝 2024年冬季号 |河出書房新社

 

 

清水徹訳、ミシェル・ビュトール『絵画のなかの言葉』から

 ウフィッツィ美術館にある『聖なる寓意』と呼ばれているベルリーニの絵の主要人物たちは、その大部分がそれぞれの象徴物によって容易にだれとわかる聖人たちであるが、わたしたちは、このふしぎな風景のまっただなかで、会話をかわす貴婦人や愛の神(アモール)だと見なされる小天使たちに立ち混って、何本もの矢を打ちこまれてこんなに静かにしている青年、傷ついたままこんなにおとなしくしているこの青年は、いったいなにをしているのだろうと夢想にふけってしまうため、この男性裸像に刺さった矢から当然それが聖セバスティアンだと読みとらねばならぬことをつい忘れてしまう。

(p.66、強調は引用者による)

描かれた顔とそのひとの名前、総じて本人の同定可能性について、肖像画をめぐる自由なビュトールの散文を読みながら、ビデオゲームの顔グラには、いや顔グラにこそ、まだできることはあると思いをあらためる。いくつかアイデアが浮かぶ

新たな距離(山本浩貴)

そういえば中尾太一がどこかで、作品としての「完成度」で詩集や詩人を「評価」することにはもう興味がない(いい詩・悪い詩・・・しかし、生)というような意味のことを述べていたと記憶して、よぎったりする。つまり私自身がこの本の本文に面会するより早くああこれをあのひとが読んだらどう応答するだろうというように他者の反応を想定してしまう。当てにしてるつもりでなく、べつに言葉を持てば「焦り」に近いものかも知れない*1

少しづつ大きく読んでいる(単に少しづつ読むというとまるで数ページを単位としたように思わせかねないから、こうだ)。

文章の論理性をがんばって追う前に、「短な」「(ら)」といった言葉遣いの脈、動詞の連用形名詞化の持ちこみかた、「~していける」という表現の「いける」にあらわなひそかどころでない肯定性の開示など、その原稿に入る前からよくよく身についていた、準備してきたと信じさせるがやはり当の原稿を記す段がなければありえなかっただろう文づくりがまずある。その文づくりのぬしとして山本の文を私は見つけさせられる。

書き手はあるとき持続という様態を見つける。そこからさまざまな提言が発生できるようになる。

 その意味で、環境内の不変項を探索する身ぶりと、「私が私であること」を操作し進化させることは、自らの条件としての空白を介して、相互に推し進められる必要がある。つまり、朝に見たねこと、夜に見たねこが、まったく別のかたちをしていながら同じねこだとわかるには、私もまた私である必要がある(図11・12)。

(「新たな距離──大江健三郎における制作と思考」p.139、注54から。なお強調は引用者による)

注のスペースに、山本のうちのねこの二葉の写真が載っているがすごい。

 小説は、なぜ、言葉のみを不可欠な素材としているふうに装っているのか。

(「新たな距離──大江健三郎における制作と思考」p.94。強調は原文では傍点)

 

*1:この私自身のXな焦りは、山本が本文に残した「ぼくたちは、しばらく焦らないといけない。」(「新たな距離とはなにか──いぬのせなか座の開始にあたって」)というなにか後ろ髪を引かせる層、そしてその層に共闘を持つ層・・とは結局すれ違う。

子どもの本

以下は、北川草子の遺歌集『シチュー鍋の天使』に埋めこまれた「子どもの本」として、井辻朱美が解説で指摘している一部であった。ふと最近思いだして図書館で借りはじめたりしているのだが。

 

論集『文学作品が生まれるとき 生成のフランス文学』

タイトルから予想していなかったが(とはいえ本を開いたあとでは納得)、文学の生成研究を軸にした論集。文学作品の決定稿概念に対する批判的検討も含め、草稿、メモ、版ごとの異同といった作品生成過程における介入・強調・修正・破棄の様相から照らす*1。論者ごとにパスカル、ルソー、フロベール、ネルヴァル、プルーストなどを取り上げている。なかで、本国におけるネルヴァル全集編集に関するおそろしい遺漏や勝手な付け足しの話もおもしろく(?)、思わず筑摩書房から往年でていたネルヴァル全集を部屋の隅から担いできて久しぶりに拾い読みさせられた。

さらに「ジャック・ドゥーセ文庫」「古書・自筆稿類の競売」「現代出版資料研究所(IMEC)」などに関する小さなコラムが論文の間に挟まれており、これらはなかなかふだん単体で知る機会のない有名な施設や出来事でもあり、うれしい。

鈴木雅雄「シュルレアリスムと手書き文字(マニュスクリ)の問題」は最後に置かれており、この配置にくすっとさせられる・・

参考文献から工藤庸子「草稿を読む」(『文学の方法』)、松澤和宏『生成論の探求 テクスト・草稿・エクリチュール』、吉田城『「失われた時を求めて」草稿研究』などを拾う。後日当たりたい

*1:ここでどうしても入沢康夫天沢退二郎による宮沢賢治異稿研究を想起することになった。今日の生成研究のもとで異稿(とでも言うほかないもの)はどういうステイタスなのだろうか。

会社員やってるとまあそういう言葉遣いや感性に順応的になっていくのだろうかというのはどうこうできる訳でもないけど、忘れてるとそういう面を見せられて多少ぎょっと、あるいはぎくっとさせられはする。

ビビッドワールド

宝石をモチーフにした色や種族のシンボル集めと小気味よいオートバトラー×ダンジョンクロールがなんとも愛らしい作品だったビビッドナイト*1の続編、ビビッドワールドのDEMOが来たので6時間ほど試遊

堪能、大堪能

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初報の時点ではアートスタイルが一新したように思え、理解できるものの少し残念な感じがしたものだがいざしっかりふれてみるとこれが/これも正解!と言える。操作の気持ちよさも前作からしっかり引き継いでいる。また、一見猛々しい武将風の男が「上手くやれるだろうか・・」など気弱なセリフを戦闘中にもらしたり、キャラ造型も各自気が利いている。

学校からダンジョンへ。冥界とタマシイ、宝石集めと下校途中のかばん。総じて角川つばさ文庫スタイルのオートバトラーだと言えよう。

 

私お気に入りの海賊スライム娘 「スライム舐めてますよねェ・・!?」

*1:当時の評価のひとつに、「ソシャゲ風だけど買い切りゲーム」という点が上がっていたように記憶する。つまり買い切りゲーなのがすでに好感を抱くポイントになりうるという訳だ(こうした感性自体は珍しいものではないが)。この点は作品の良しあしとはべつに考えさせられるものがあった。昨今の、商法と良心性にまつわる意識がはからずも俎上に上がっての言説だったのかも知れないが。