期待の描線(タグ名 描線のアイデアにかかわりそうなものをここには詰めておきます)

揺れたり震えたりした線で  
丁寧丁寧丁寧に描くと  
決めていたよ  
サカナクション"新宝島"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(へじていと・山岸菜『全部ぶっ壊す』5巻、集英社、2023年)

 

キャンバスの

一望性。

二望性。

三望性

(一読驚嘆?三読讃嘆?どっちが強ェやつだ?かかってこい!

 

 

(やいぎ「ギタイノホシ」、おわりのいれもの、2022年)

 

象る力だと思っておぼえてたら象られた力だった。

なぞるということについてとりかえしのつかない思い違いをしているのでは?

 

 

 

木崎ひろすけ『少女・ネム 増補版』、KADOKAWA、2001年)

 

自分の署名を行うと私にそっくりになる名前。ネムとはそういう含意があると思うが、作家はなにかかいているときにこの次第を着想したのだろうか。かいてみなければ気づかないことはあるとして。

 

 

 

 

 

黒がほしいときが逆に稀有。

その黒の主線を大切になすってください(鑑定団)

という幻聴。

 

 

 

昔つくったネームをリメイクしていた。

ナンブというキャラがでてくるマンガだが深いところはなく、名前に引きずらせるいつものやり方になっていった。

 

↑当時の1ページめ

↓最近

 

 

ナンブ

へなぶり(石川啄木)に似ているところもある。高速道路の休憩所のおみやげの記憶。南部、岩手、胡麻煎餅。

 

 

ガールズバンドクライ5話まで

私は観ていなかったが友川カズキドキュメンタリー映画に、競輪の車券に一喜一憂してアパートでついに絶叫するシーンがあるらしい(http://hardasarock.blog54.fc2.com/blog-entry-2225.html)。記事先でも行川が言っているが、友川の「あの声」が轟くアパートの、ほかの住人の心情を想像すると少しばかり絶句させられる。しかもそれさえも昨今の配信者の「騒音問題」と同じ地平に載せられて社会的には語られるのかと思うと・・もう一度絶句してしまう。現実的に、人間がすきに声ひとつだせないということはもちろん/まずは日本の最低な住宅環境の問題でもあるが、それだけでなく根源的に騒音問題などというものがあってしまうことが不条理ではないだろうか。歌いたいから歌う、叫びたいから叫ぶのだとしたときに、しかしまず周囲の実質的な迷惑や被害を考えてしまわざるをえないとしたら、そこに関わるすべてのこの世の機構がなにかおかしいのだと思う。私ももちろん他者からそうされたら死ぬ思いをするにせよ、だ。

ところで友川は川崎のアパートに住んでいるらしい。ということはやや口をすぼめて言えば、友川が競輪に狂い、あげく絶叫する声は、川崎が舞台の「ガールズバンドクライ」の世界の一端に轟いているようなのだ。"一切合財世も末だ"で言う、「鉛の弾」(訛りの弾でもあるが)をぶちこまれた胸から弾を吐きだそうとしてアガアガと詰まる濁った声が。なんとしたことか。

 

(以下画像など有)

とくに説明なく、アニメ感想を作中のスケッチ絵こみでアップするスタイルを始めてみた。Misskeyでも言ったがこれはコストがかかる。もっともそれは今のところ私の助けになっていると思う(気軽には量産しえないことも含めて)。ただ大なり小なりネタバレになってしまうので続きを読む記法にしようかなとか・・。

 

先日知ったがガールズバンドクライのサブタイトルはすべて花田十輝がつけているようだ。これは楽しかった筈だ絶対に。なにしろ自分のプレイリストを堂々と明かせるのだから。という訳で1話の遠藤賢司、2話のゆらゆら帝国はともかく、3話の「ズッコケ問答」(eastern youth)にイースタン・・!!!と椅子を蹴飛ばして立ち上がってしまった私。続くフィッシュマンズ、そしてサンボマスター(なるほどあの曲名・・)と、00年前後のライジングサンやロックインジャパンFESの匂いが強いのも判明して花田自身にその時期の音に思い入れがあるのかも知れないなどと思う。そこには最近話題になっていた「ふつうの軽音部」でも強調されていた銀杏BOYZもあっただろう。

shonenjumpplus.com

そうなるとぼっち・ざ・ろっく!とまさに結束的に機能してしまったアジカンに対してもどういう距離がとられるのか愚者としては気になったりする(被せにいくのか、採らないでおくか、あるいはアジカンの前の「メガネ」存在としてのくるりを持っていくとか・・・)。

 

花田のロック趣味について記事をさがしている過程で、沼田友というアニメ制作の方が昔やっていたブログで、自主制作アニメが新海誠の感性と比較され続け戸惑っている日記をおもしろく?読んだ。

https://web.archive.org/web/20140417104253/http://memos.sblo.jp/article/92317757.html

見当違いの比較や、影響が無意識に表れて・・などとは水準を別にする、この「思ってもみない対象がいきなり自分の感性の鏡像のように外部から指名されることの戸惑い」は出来事としては非常な含蓄がある。あなたのやっていることは誰それの活動に近いものがあると思うという一文のバリアント、とくにこの言い方の「調節」、またその受け入れ方の感度。沼田さんの場合は新海作品をすでに観て、敬意も抱いており、ただそれが自分の表現と比較されることを想定しえなかったことから来る戸惑いなのではあるらしいけれど、自分がぜんぜん知らない作家と深く関連ありげに比較されるケースも少なくないだろう。それに当事者として立ち会わされる、ということを雑誌のインタビューなどで読むにつけ、いつも気にしていた。自分の知らない隣人として興味を持ちはじめることも、ポジションだけはどうやら確立されているらしい先行者として不愉快に遠ざけることも、そこからは同じくらいの可能性で開いている。クラウディオ・サンチェスなどはまったく聞いたこともないのにRushのゲディ・リーに声がそっくりだと言われ続け、戸惑いのはてに、20年後結局は"Anthem"(Rush)のカバーでゆうゆうと歌いきってしまった。

終末トレインどこへいく?(2024)

電車と言えば路線変更ということになる。

 

風刺もの(と仮に言っておく)の難点/利点が3話ともなると効率よくジャンルムービーに消化されてみえる。サバイバルもの、家出もの、冒険もの、同居生活もの、寓話の国もの、・・・鉄道もの。

ライトノベルの感想として「思ったより遠くに行けなかった。」という表現をふと思いだす。遠くに行けなかった、とはその場合「作品がそこまで届かなかった」という失意の謂いなのだが。

 

高麗川を電車が渡る。窓から身を乗り出し、静留「あっちが秩父でしょ? ってことはこっちが池袋じゃん」。この場面にぞわぞわするものをおぼえる。それはこの電車が無人であることを外観のほうが伝えてしまうからの気がした。なかに3人と1匹はいる。しかし静留が指さし確認している状況を見せる絵は、風を切って進む電車をそう見せてはくれない。

 

木野日菜演じる東雲晶のしののめあきら感が強烈。これはあきらだわ。しののめだわ。

 

1話、旅立ちを決意した静留が教室に別れを告げに来る場面のBGMにわっと思う。辻林美穂が劇伴担当にクレジットがある。これは効いている。2話のあたかも70年代のTangerine Dreamのようなレトロでスペーシーな入り方などもそうで、全体的に音響面で音楽として魅力的でありつつ、ドラマに対しては異物感の組織化がすぐれている。

また主題歌"GA-TAN GO-TON"は、アニメのOPというものがおおまかに与える体感時間を、相対的に長い内容のものとして生きておりこの作品においてはそれがよく感じた。OP映像に対して、たとえば歌の強調ポイント(この映像には歌がこう盛り上がり「そう」という予断)がエディット操作によって非定型的に対応をしているせいだろうか。

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎(2023)

ミステリというと私が思いだすのはコ型の校舎だ。いや、ミステリーかも知れないしミステリィかも知れないが。コ型とあらためて字にされるとたちまちかすかな呪縛をこうむる。それはT字架のT、Y字路のYと同じで、字が言葉の意味内容ではなく形態だけを借りて説明に供される瞬間だからだろう。T字架のT、Y字路のY、コ型の校舎・・・ときにゲゲ郎の下駄の痕跡は「二」型をしている。

結局、下駄の指標(インデックス)は二方向ある。カランコロンの歌にあるようにひとつには下駄の立てる音響であり、その音色によって下駄の持ち主(ゲゲ郎/鬼太郎)は都度特定される。もうひとつはこの作品に見られるように下駄が地面に刻む足跡だ。ビジュアルはそれを先にふれたようにニ型の印字として大地に対象化する。ゲゲ郎がいるということのインデックスは下駄の音/下駄の跡によって推しはかられる。

しかし「あしあと」は「あしおと」ではないから、言い換えればカランコロンという音響は本作においてゲゲ郎が最初に登場する場面でその持ち主のオーラを予告することを第一義とし、かえて、水木が見つける足跡のほうはそれと反対に、ゲゲ郎がもうここにはいないことをひとつの距離の像において諭す。

もし指標記号を文で解釈するとすれば、その法は『御覧!』とか『気をつけろ!』のような命令法や感嘆法でなければならない。(C.S.パース)

足音と足跡の記号上のずれの間で関俊彦が劇中最初の口を開く。それはおそらく音色として聞こえてくる。

便所で最近は闘争のエチカを読み返している。ところで「永遠と/延々と」の現代的な用法についてはすでに十分擦られすぎたように思うし今更口にするのも気が引けるが、次の発言を見つけた。

蓮實 言語は言語についていくらでも語れるんです。事実、ギリシャ以来、人類は永遠に言語について語ってきたわけで、その点からすれば、十九世紀から二十世紀にかけて言語学がしかるべき体系を形成しても驚くにはあたらない。

蓮實重彦柄谷行人闘争のエチカ』p.46、河出文庫河出書房新社、1994年)

この「永遠に」は「延々」のノリにかぎりなく近いと思うのだが。

 

マンガをこのごろまた描いているので、マンガという画面や描線という出来事を、内在的な経験の面から考えてみたりかいてみたりするためには有利な位置に今あるような気はして、そういうこともメモしてみたいきもち有。

玉吉の電子書籍をまとめてこの前買っておいたのだが伊豆ものの一コマ↓

藤子作品のレファレンスやもっとさかのぼったケースもあるんだと思うが片目だけ涙がぽろりとしてる顔貌のデザインはなんというかまだ「使える」気がするのだ。いや、私においては泣いてるのが重要ではなく、キャラの右目と左目でモードが別なことが大事だ。左右で違うデザイン、これを絵柄の違いまで持っていければ御の字なのだが。

 

文化庁主導のMACCから最近触発的だった記事。サイト自体だいぶ充実してきている(えらそうですいやせん)。

VTuberはアニメーションか?(小倉健太郎

https://macc.bunka.go.jp/4386/

・クレジットタイトルアニメーションという実験場――混淆を呼び込む揺籃としてのOP/EDアニメーション(田中大裕)

https://macc.bunka.go.jp/3836/

夜のクラゲは泳げない(2024)

ヨルクラとガルクラではそれこそYOASOBIとヨルシカくらい違う(主題歌に後者2組を続けて起用するという、なにか絶句させられるようなアニメもあったが・・・)。つまり視聴経験の上でほぼ関係するところはない。観る前の自分の「印象」とは、そうしてみるとなんだったのだろう。このふたつを並べていたとは随分なものだけれど。

 

音楽ものでイラストレーターが強調されるのは時代に即した正当性があるとは言える。それにバンド結成となると大体は「じゃあいっしょに演奏しよう!歌おう!」という話になってしまうので(悪い訳ではぜんぜんないです)、バーチャルシンガーや歌い手を中心としたチームのお話だと歌担当、イラスト担当、作曲担当、MV担当、広報担当・・・・とパーティー的な機微がだしやすくはなるのかも知れない。

 

テマティックな線を追おうとするとこちらの分が悪い作品。それゆえ、とりわけ1話の絵と会話劇、音声と起こりつつあることを、視聴者に対して攪乱的に速いスピードで繰りだしてくるところから散乱する情報につきあうときに惹かれるものが見つかるようだ。

「うん・・・・"ほんとそれ"」(まひる)、ここで引用(クォート)を表す蟹めいたジェスチャーを行うので少し驚く。冒頭の姉妹の会話からしSNSインフルエンサー、バイトテロ、バズる、・・・そして「量産型」(!)と来るのであり、盗撮云々を言いながら「アニメのカメラ」に素肌を思いきり接写させさえする。そこから教室で「自分が何者かになったってあかしを・・・」と特大のホームランを見送っているさなかででてくるのがこのまひるの簡潔な「ほんとそれ」だ。この直前のまひるの身動きと表情、さらにまひる右側の余白などとあわせてむずむずさせられるものがあり、結局こうしたむずむずしたものを一方で求めて私は視聴を続けていると言える。上に絵にしたまひるの身振りが「ほんとそれ」を「"ほんとそれ"」とひそかに言いたいがための、クォートのジェスチャーを利用した小さな抵抗言語なのか、単なる気弱さに付随した手のたわむれだったのか判らないままだ。

 

幼少期の壁画を描いているまひるの回想。この画面は思わず模写したくなるもの。描いた。

絵のわきにはクレジットが記されている。回想では、それが裏側から見透かされた構図になる。裏からカメラを取る映像は珍しくないが、ここで風景の一部に文字があることで、記憶の映像はにわかにディスプレイの感触をたたえはじめる。痕跡としてかぎりなく薄い文字という物質を残したままカメラが位置どろうとする際の必然的な帰結でもあり、こちらとしては文字の功徳のように思っている。