この学習の片隅、から──『西村ツチカ短編集 アイスバーン』

ん昨日『ゆうれい犬と街散歩』についてかいたあと私もどこかに行きたくなった。水辺がよかった。それで武蔵浦和から美女木経由の街バスに乗り、彩湖および彩湖自然学習センター周辺をひととおり散策してきた。という訳でもっぱら感傷ではなく、干渉がほしいという感じだ。マンガと干渉される自分。

帰ってきてから西村ツチカ『西村ツチカ短編集 アイスバーン』を読んだ。これは落差だろうか。だとしてもどこから、なにの。90年代初頭あたりの管に繋がれた生体セクサロイドの下劣なパロディのような落書きに悶絶させられる「東京ノート」から、あたかもIt Bitesの「Plastic Dreamer」の歌詞のように牧歌的なファンタジーと家庭劇が家屋の間取りを模したコマ割りと黒・白というメディウムのコアへと煮詰まってみせる「ココット物語」、そして、いじめ/子供という話の内容への読者のうっすらと濁った期待に対して八方破れなページ構成でただでは読ませまいとするかのように打ち据える「ゲームくん」。もうなんでも描けるひとみたいじゃん。

がらくたストリート』(山田穣)という作品の達成に昔、「七里の鼻の小皺」というサイトの七里がかけていた言葉をここで思いだす。あらかじめマンガが開発してきた種々の技術も、その表現史も、すべて知りつくしてしまっているような描き手が、それでも不必要にシニカルに陥らず*1絶望しないで*2マンガを描いていけることへの感動を綴ったものだったと記憶している。それに「まだ描ける」ということがひとつの達成であっても構わないのかも知れない。この短編集の読後感は、その遠い記憶からの同じ風を私にいっとき浴びさせるようだ。

*1:ただし、徹底的に遂行されたシニカルはまたべつの「なにか」であることができるだろう。

*2:いや、むしろ一度はたしかに絶望を経た上で。