浮いて伺う──『ゆうれい犬と街散歩』

第2話「中野編」のしめくくりに中野四季の森公園に主人公が来て、くさむらのなかに気持ちよさげに寝っ転がる。左隣にはいっしょに散歩してくれる「ゆうれい犬」が簡素なフォルムで浮遊しながら見守っている。

中村一般『ゆうれい犬と街散歩』p.43、トゥーヴァージンズ、2022年)

 

このようなコマと対比させる目的ならばどこでもよいのだが、たとえば5話「北千住編」で裏路地にいる主人公たちを見てみよう。こちらは環境とキャラクターが同じ一定のモードで描かれているという感じがある。すると先に引いた中野のひとコマが、あたかも写真の上にイラストをコラージュして遊んだものに似た、柔らかい異物感をくすぐるものとして読んでいた自分にも遅れて気づかされる。

(同上、p.104)

 

実景のロケをあまり省略せずきちんとひとつひとつ線に落としこんでいくよろこびを享受されるマンガであるだけに、コマや場面によって、大きくフォルムを変えたりしていない筈のキャラクターが環境と描線存在として親和的であったり反対に浮いて見えたりするのがふしぎな作品だ。ある場合はキャラが環境へのコラージュに見え、ほかの場合にはキャラも環境も統合的に見える*1。中野のコマは前景の木の細密さや陰影の多さがとりわけ通常の環境描写より以上の彫刻性を持たれ、反対にキャラクターのゆるい身体は大胆に白く抜かれて描かれているから、というコントラストのせいもあるかも知れない。

いずれ、環境とキャラクターの描線上の組織化や反組織化──キャラがまわりから「描線として」浮いてる、馴染んでる──という出来事について、あらためて考えさせられる。それは、実景/ロケというジャンルにとくに属した作品に特有のことがらなのだろうか。

 

『ゆうれい犬と街散歩』はもちろんマンガとして描かれマンガとして流通しマンガとして読まれているマンガ作品なのだが、「良質なエッセイ」や「鋭い観察」の水準が「マンガになる」瞬間へと移行する場面をもちょくちょく取り押さえているという意味でも手応えのある作品だ(同著者の『えをかくふたり』もそうだ)。それはたとえば、中野編で以前あった民家が消失していたことに主人公が驚き(「ここの家なくなっている…」)、しかも次のコマでやすやすと「前はこんな家が建っていたんだよ」という説明とともに絵の上でその「こんな家」込みでロケーションが即座にコマのうちに立ち上げられてしまう箇所だろう。こうしたコマにおける、躊躇なしの映像化がマンガを読む際の驚きを養ってきたひとつではなかっただろうか。

*1:この文脈ではすぐ察せられるだろうように、panpanyaの諸作における描き方を横に置いて考えてみるのもおもしろいだろう。