ガールズバンドクライ5話まで

私は観ていなかったが友川カズキドキュメンタリー映画に、競輪の車券に一喜一憂してアパートでついに絶叫するシーンがあるらしい(http://hardasarock.blog54.fc2.com/blog-entry-2225.html)。記事先でも行川が言っているが、友川の「あの声」が轟くアパートの、ほかの住人の心情を想像すると少しばかり絶句させられる。しかもそれさえも昨今の配信者の「騒音問題」と同じ地平に載せられて社会的には語られるのかと思うと・・もう一度絶句してしまう。現実的に、人間がすきに声ひとつだせないということはもちろん/まずは日本の最低な住宅環境の問題でもあるが、それだけでなく根源的に騒音問題などというものがあってしまうことが不条理ではないだろうか。歌いたいから歌う、叫びたいから叫ぶのだとしたときに、しかしまず周囲の実質的な迷惑や被害を考えてしまわざるをえないとしたら、そこに関わるすべてのこの世の機構がなにかおかしいのだと思う。私ももちろん他者からそうされたら死ぬ思いをするにせよ、だ。

ところで友川は川崎のアパートに住んでいるらしい。ということはやや口をすぼめて言えば、友川が競輪に狂い、あげく絶叫する声は、川崎が舞台の「ガールズバンドクライ」の世界の一端に轟いているようなのだ。"一切合財世も末だ"で言う、「鉛の弾」(訛りの弾でもあるが)をぶちこまれた胸から弾を吐きだそうとしてアガアガと詰まる濁った声が。なんとしたことか。

 

(以下画像など有)

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田中大裕がガルクラの映像表現にフォーカスした記事を上げている。先んじて、ガルクラのプロデューサー・平山理志はガルクラのモデリングの方向性を「イラストルック」という言い方で表現していた。田中はそれを受けとりながら、影のつけかたと輪郭線の存在などの要素からガルクラの画面の独特の見え方を伝えてくれている。

なかで、フェイシャルアニメーションという言葉もでてくる。VTuberのほうで見知っていたが、ガルクラの表情モーションもそういえばそうなのかも知れないとおもしろく思った。だがVであれば表情について「切り替え/切り替わる」というオンオフ的な運動として受容してしまうが、ガルクラの表情の遊びはどうも切り替えというモードで観ることがむつかしい。こうした受容態度の可否にも、先のイラストルックという絵の質はかかわっているのだろうか。

これは第1話で早くも予感されたことだったが、OP映像の仁菜たちはまさにドローイングスタイルでのアニメとして動いている。OPでの「この仁菜たち」とアニメ本編の「この仁菜たち」とのビジュアルとしての懸隔においてもキャラクターのひとつのスリルがある。歌についてもいつかべつにかいておきたいが、OP映像で仁菜たちがドローイングスタイルで手を尽くして口を動かして、見得を切るほど、流れてくる主題歌をまさに「この仁菜たち」が歌っているようにはどうしても私には思えないものだ。もっともこう強調してみてなにか誇らしげにしたい訳ではない。ただ、音声と動画とのシンクロの度合いが激しいほど、イラスト=キャラクターが歌っているというイリュージョンが強調されるほど、乖離は濃くなって感じられる。私にとってこうした乖離の感じは実際映像作品に対してしばしば起こるものでもある。主題歌(音源)+音に合わせて歌っているようなOP映像(動画)。制作物と制作物を同じタイムラインに乗せようとするときの(こうした乖離がほどけるのが、アニメ本編で会話劇などから地続きで入るライブシーン・・・すなわち声優のリアルタイムの声のセッティングを追い風としたシンクロのときだったりするが、それも象徴的すぎてそのまま言うのもどうしようと思っている)。

「まさに歌っているように」感じられることだけがこうした場合正しく、そして肯定的に、「歌うキャラクター」を感受する条件だということであれば私の乖離は単に否定的な様態になるしかない。しかし事情はそればかりでもないと思いたい。この乖離は一方で現在では配信のものでもある。モデルやアバターの口の動きと、しゃべっている音声をそれほど自明に結びつけて感受できるものだろうか、ということで。そして結びつけられないまま画面を見つめることは、単にVを美的に受け取れなかったという失敗しかあらわさない、ということに留保を与える道も残っているのではないかという。

 

かなり早い段階で思ったがめんどくさいという人物評は使わないほうがいいんじゃないか。誰かをめんどくさい人間と評したとたんにどうでもよくなる。というかめんどくさいという指摘に私がいい加減飽きている。めんどくさい人間という表現はフレッシュではない。そのフレッシュでなさ、言い飽きて定型入りした言葉の疲労度の歴史に、当の人間の単調でない振る舞いが周囲に発するストレスを見合せる、といったかたちで現状めんどくさいひとという用法は養分を得てはいるのだとしても。

 

毎話、飛び跳ねる表情は観ることは楽しい。仁菜の富士山型のぐぬり口はもはや視聴者におなじみになりつつあるだろう。4話でのすばるの片側を吊り上げる口などバシッとしている。ドラムセットの後ろでのすばるの破顔は宝だ・・・私はドラムがいちばんすきである。自分でもドラマーだと思っているしやるならドラムしかない。狂った!

 


実景のロケの恩恵では楽器店の散策が眼においしい。充実。ということで同じく4話での、ドラムセットコーナーにいる仁菜を絵に落としてみた。

 

5話の冒頭のディスプレイは見事だ。しかしそこからなにかを感想に引きだすのはむつかしい。なにか言いたいけれど。すばるに練習のじゃまをするケンカを咎められうぐぐとふたりで左右にじりよる構図のよさ、酔いつぶれ、足抱え、問題のライブシーン、Tシャツと言葉、乖離の忘却・・・言いたいことができてくる、しかしもう時間だ。