便所で最近は闘争のエチカを読み返している。ところで「永遠と/延々と」の現代的な用法についてはすでに十分擦られすぎたように思うし今更口にするのも気が引けるが、次の発言を見つけた。

蓮實 言語は言語についていくらでも語れるんです。事実、ギリシャ以来、人類は永遠に言語について語ってきたわけで、その点からすれば、十九世紀から二十世紀にかけて言語学がしかるべき体系を形成しても驚くにはあたらない。

蓮實重彦柄谷行人闘争のエチカ』p.46、河出文庫河出書房新社、1994年)

この「永遠に」は「延々」のノリにかぎりなく近いと思うのだが。

 

マンガをこのごろまた描いているので、マンガという画面や描線という出来事を、内在的な経験の面から考えてみたりかいてみたりするためには有利な位置に今あるような気はして、そういうこともメモしてみたいきもち有。

玉吉の電子書籍をまとめてこの前買っておいたのだが伊豆ものの一コマ↓

藤子作品のレファレンスやもっとさかのぼったケースもあるんだと思うが片目だけ涙がぽろりとしてる顔貌のデザインはなんというかまだ「使える」気がするのだ。いや、私においては泣いてるのが重要ではなく、キャラの右目と左目でモードが別なことが大事だ。左右で違うデザイン、これを絵柄の違いまで持っていければ御の字なのだが。

 

文化庁主導のMACCから最近触発的だった記事。サイト自体だいぶ充実してきている(えらそうですいやせん)。

VTuberはアニメーションか?(小倉健太郎

https://macc.bunka.go.jp/4386/

・クレジットタイトルアニメーションという実験場――混淆を呼び込む揺籃としてのOP/EDアニメーション(田中大裕)

https://macc.bunka.go.jp/3836/