夜のクラゲは泳げない(2024)

ヨルクラとガルクラではそれこそYOASOBIとヨルシカくらい違う(主題歌に後者2組を続けて起用するという、なにか絶句させられるようなアニメもあったが・・・)。つまり視聴経験の上でほぼ関係するところはない。観る前の自分の「印象」とは、そうしてみるとなんだったのだろう。このふたつを並べていたとは随分なものだけれど。

 

音楽ものでイラストレーターが強調されるのは時代に即した正当性があるとは言える。それにバンド結成となると大体は「じゃあいっしょに演奏しよう!歌おう!」という話になってしまうので(悪い訳ではぜんぜんないです)、バーチャルシンガーや歌い手を中心としたチームのお話だと歌担当、イラスト担当、作曲担当、MV担当、広報担当・・・・とパーティー的な機微がだしやすくはなるのかも知れない。

 

テマティックな線を追おうとするとこちらの分が悪い作品。それゆえ、とりわけ1話の絵と会話劇、音声と起こりつつあることを、視聴者に対して攪乱的に速いスピードで繰りだしてくるところから散乱する情報につきあうときに惹かれるものが見つかるようだ。

「うん・・・・"ほんとそれ"」(まひる)、ここで引用(クォート)を表す蟹めいたジェスチャーを行うので少し驚く。冒頭の姉妹の会話からしSNSインフルエンサー、バイトテロ、バズる、・・・そして「量産型」(!)と来るのであり、盗撮云々を言いながら「アニメのカメラ」に素肌を思いきり接写させさえする。そこから教室で「自分が何者かになったってあかしを・・・」と特大のホームランを見送っているさなかででてくるのがこのまひるの簡潔な「ほんとそれ」だ。この直前のまひるの身動きと表情、さらにまひる右側の余白などとあわせてむずむずさせられるものがあり、結局こうしたむずむずしたものを一方で求めて私は視聴を続けていると言える。上に絵にしたまひるの身振りが「ほんとそれ」を「"ほんとそれ"」とひそかに言いたいがための、クォートのジェスチャーを利用した小さな抵抗言語なのか、単なる気弱さに付随した手のたわむれだったのか判らないままだ。

 

幼少期の壁画を描いているまひるの回想。この画面は思わず模写したくなるもの。描いた。

絵のわきにはクレジットが記されている。回想では、それが裏側から見透かされた構図になる。裏からカメラを取る映像は珍しくないが、ここで風景の一部に文字があることで、記憶の映像はにわかにディスプレイの感触をたたえはじめる。痕跡としてかぎりなく薄い文字という物質を残したままカメラが位置どろうとする際の必然的な帰結でもあり、こちらとしては文字の功徳のように思っている。