ガールズバンドクライ(2024)

ハードコアとの関連でファクサインについて個人的に思い出されるのは、LOSTAGEの僕の忘れた言葉達MVのあの印象的な光景だ。

www.youtube.com

MVでは、ひとりが「ピースフル」な微笑みを浮かべながらいきなり中指を立てる。すると横のメンバーがその手を握り、ファクの意図を隠してしまうだろう(あるいは隠蔽することでますますシルエット化する)。さらに反対側のひとりが手をかぶせる。手のタワーはいつの間にか空を指し示す人差し指に変わっている。
この一連の動きはもちろん両義的に働く。怒りを無害化(なあなあ化)してしまう面。一方で中指は同じフラストレーションを抱える者相互に機能するこの指とまれにもなる。この同化の身振りにも再度両義的な面を見てとり、さらになにか言われる前にあらかじめその「危険性」を親切に言ってくれるひともいるにせよ。

このようにして「ガールズバンドクライ」という新しく始まったアニメのタイトルに入っていく。すでにこのタイトルは(無闇に、とは言わないまでも)十分にこみいっているようだけれども・・・。

 

ガルクラを現状3話まで観ていてここでは1話の感想を拾い書きしておく。

「夜のクラゲは泳げない」とべつの方向で光学的な興味が生まれた。私が愚かにもうとうとしている間にCGアニメは近年随分高い達成を見せているようで、熱心に追っているひとたちには頭が下がる。この感想はそうした近年の動向にまったく不勉強な者がかきつけていて、そのことにまず「すみません」と言いたい。ともかくヨルクラは「ネオン派」というひとつの語り方/スタイルで視聴者を惹きつける出だしだったが、こちらのアニメも光っている。ネオン派の美学ではないしかたで。それはCGアニメ由来の、舞台環境に点在するライティング物のアセット感覚に依るのだろうか。視聴経験の際、映像の内部に直接xyz座標やスイッチのありかを感じとれるような。そこで独特の立体感をおぼえたり。ライティングということの具体的には、仁菜がとぼとぼ知らない街へはじめて来て歩いているシーンの街灯がすきに思った。絵(右)のデジタルな青さだ。

駅で背中から桃香の弾き語りに襲われはっとする仁菜のシークェンス。音に対する気づきと衝撃に応じてキャラクターのモーション(と便宜的に言う)が、段階的にアクセントを伴いながら推移する。はっとする、「続けて、さらに」はっとする・・というように。こうした身体の連続性とその推移の描写はCGの優位性がたしかにでているように感じる。ここはフレーム数の多さという、より直接的な原因もあることとして。

CGの表情づけは誇張的に活用されるとまた楽しい。桃香がぷっと口を吹きだす箇所は反応しやすいところ、そこも絵にしてみた。ベロベロバーは言うに及ばず。
ふたりの顔が接近するところの画面もどきっとさせられる。CGアニメで顔が近いということは、アニメーターによるドローイング志向のアニメ作品と同じシチュエーションでも、なにか違うものを喚起される。具体的にモデリングとして稼働・移動可能な造型として画面にキャラクターが立ち振る舞っていることが独特の立体感を描いてしまうのかも知れない。

お気に入りのシーンをひとつあげると、喫茶店で両親とのいさかいのあとテーブルに突っ伏す仁菜をとらえたカメラが左に軽くパンする以降。このカメラの操作は通常のアニメではシチュエーションに照らすとどうも不可解なものだ。このアニメでは、パンして生まれた画面の余白にすぐさまスマホの画面がイリュージョンのように出現するので不可解と思う暇はなく、あるいは直後の場面上の解決によって「変だな」と思ったこと自体忘れられる。いずれにせよ、ほかのアニメ作品で言うと、たとえば「アイの歌声を聴かせて」で映像再生領域が、平面的に/マルチスクリーン的に並置されていたことを思い浮かべつつ、私にはうれしい驚きとなった。