タイムラプス(挟み撃ちの装置)

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先日MACCサイト上に映像作家・五島一浩によるPeel-Apart TV Animeの報告が上がった。作家自身の文章から説明を引くと、これは80年代に東映アニメーションに制作された「夢戦士ウイングマン」(原作・桂正和)の原画と完成版の映像をそれぞれ透過スクリーンにプロジェクションしたインスタレーション作品ということになる。

デジタル・アニメーション遠望 第2回 アニメ中間素材からメディアアート作品をつくる | MACC – Media Arts Current Contents

説明のなかにもあるが、完成版のアニメ映像とあわせて流されるものが、ここでは「動画」ではなく「原画」という選択が大きい効果を上げているようだ。すなわち原画という物質のステイタスを「私というイメージをモデルに一連の統一的な形象を描画せよ」という命法を、自分に連なるべき(以後の)動画たちに対して、端緒に開く制作物として見るなら。YouTubeでの映像経験だけではやはり早々に自分の認知感覚の限界を感じるが、だから、二枚のプロジェクション映像の重ね見が、単にデモ/完成版や下書き/清書といったレベルの落差に落ち着くことはなく映る。原画──「私はまだ動かないが、運動のありかたの見取り図は私から取りだせるだろう。私の描かれ方、私という構図、私というデザインを、キャラクターの同一性と線の同一性がクロスする場所をまず私が披露しておこう」

フィルム時代のセルアニメは、「セル」(と背景画)という「現実」をカメラで撮影する「実写映画」であるとも言える。

(五島一浩、同上)

セルという実在物の定点撮影の観点からアニメを実写映画の範疇に繰りこむ論点は、たぶんそれなりに息の長い伝統的な視点でもあると思うが、おそらく共同研究者/開発者として名前が挙げられている石田美紀とともに、キム・ジュニアンの以下の論文はそのような、なによりもまず撮影されるもの、実写対象としてのセルを掘り下げたレポートだ。セル(高分子フィルム)という素材に際立った注目を与えながら、アニメをメディウムの特異性の側から調査してくれている。セルフィルムの保管・検査・流通史の話は文字通りテクニカルな議論であって私の把握をこえるが、

Kim Joon Yang (Joon Yang Kim) - セル画に関する現象学的・高分子化学的研究を目指して:視覚経験とその物質的リアリティー - 論文 - researchmap

プラスティックは、キャラクターやロボットなど手描きによる2 次元の形状を3 次元の模型へと変貌させる——なおかつ、それらの2 次元の形状がビデオゲームのコンソールや筐体の中に組み込まれる際にも——物質的基礎として機能してきたといえる。

(キム・ジュニアン、同上)

2次元的な表象を持つアニメのセルと、3次元的にブンドド遊べるキャラクターものの玩具は、プラスティック(「未来の素材」・・)という同種の素材でつくられていたという事実の再掲によってここで思わず靭帯し、少し眼がさめていく。

従って、アニメーターに制限を与える遂行行為者としての材料という観点から、様々なアニメーション映画に残された失敗の痕跡に関するフランク(2016)の議論は貴重なものである。その失敗というのは、例えば、照明によってセルの表面上に生じるニュートンリング(つまり光学的干渉パターン)、埃や汚れ、人間のフケなど(Frank、2016: 29)がセル画の画像と一緒に撮影されてしまい、スクリーン上で確認できるものを指し示す。それらの物理的、身体的痕跡は通常、撮影の際に取り除かれるべきであり、なぜならそれは、「写真的複製において失われたものを我々に呼び起こす」(Frank、2016: 32)からである。その喪失の一つは、カメラの前で撮影される複数のレイヤーのセル画と背景画を囲んでおり、そしてセル画と背景画との間に存在する3 次元の空間である。透明なセルというメディウムは、3 次元空間の厚みをなくし、そうすることで「とある世界」を人間の視線の前に立ち上がらせ、まるで見る人間と見られる対象の間に如何なる仲介も干渉もない、つまり媒介が全く無いかのような即時的視覚経験を提供する。

(同上、強調は引用者)

セル画を一定の距離をとってカメラで撮影していた時期のアニメ映像は、自分が3次元の者だということを徹底的に隠してみせたイリュージョンだということでもある*1。セル画アニメはその意味で空間を持ち(だが眼はそれを感じることができない)、カメラからセルまでの距離を映像のうちに明かしてもいた(だが眼は・・・)。これは、私にはコンピューターにおけるウィンドウのデジタルな薄さと関連して浮上する。そのイメージまでの距離、隙間があるということを感じることがはじめから無化されているような距離(だが事実上存在する、していた距離)のもどかしさについて、あらためて惹起していく。

*1:セル画アニメが隠す「3次元空間の厚み」はたしかに二通りの含意がある。本文中で自分が強調しておいたのは、撮影装置(カメラ)から対象物(セル画)までの、いわば「感じえない隙間」についてのことだ(これはどちらかというとフレーミングの問題でもある)。それに対し、セル自体が何枚も重なりひとつの画面を透過的に構成できることに着目した、複数のセル画の空間的な重なり合いに論点を置くこともでき、ジュニアンの議論はこの二通りの厚みの無化をそれぞれ伝えてくれてある。