窓をプレイする──ウィンドウのデジタルな厚み

冬の火事と聞いてそれぞれ思い描く冬のずれから色紙が散る/服部真里子『行け広野へと』

 

宝石が純度の高い娯楽だった時代を考える。宝石にも、あえて言えばビデオゲームボードゲームのようなダイレクトな面白さが期待できた時代を。それがファセット加工にせよ、カボション加工にせよ、手に乗せてすきなように操作可能な色と光の玩具としての宝石を。鏡の前で、窓のそばで、燭台に対して宝石はプレイングの対象であっただろう。宝石とはぐるぐると3Dオブジェのように回して眺めるほどおもしろいものだと、どこまで現在の私がたに真剣に受けとめられるだろう。ぷよぷよやポーカーとまったく同等の水準と権利で、暇を潰すための候補に「宝石を手に乗せて遊ぶ」という行為があっただろう時間を。宝石は光と色のランダマイザであり、カットの表面をこうばしく追うほどそれは今やダイスと呼ばれる一式の小道具の影像に似通っていく。コントローラー(入力機器)とディスプレイ(出力機器)が一体となったような視覚的=触覚的な宝石という「細かな遊戯台」はいつしか、ゲームの結果取得されるジェムという意味価へと自分を移行させてしまったのだが。

 

ビデオゲーム上の図鑑ページなどで、3Dモデリングされたアイテムやキャラクターを360度ぐるぐると回して眺める。これはリアルではない。ひとが同じように物体を手につかんでぐるぐる途切れなく回すことはありえない。なぜならつかんでいる指を一定方向に動かしきったあと、また元の位置に戻すために指は物をつかんだままポジショニングだけを換えるための待機時間が要るのであり、そのつどオブジェのスムーズな回転の継起性は阻害されるからだ。物を手でつかむ。指を動かす。物もそれにつれて回る。そして物をその場に固定したまま指だけを戻す──ひとは物を「少しずつ」回して眺めることしかできない。かえて言えば、望むべき物の回転量に対して、ひとの運指の労働量はいつでも少し余分であらざるをえない。こうしてオブジェの回転という見せかけの連続性に、動作主の運指という疑似的な離散性が対応する。さらにこうして、宝石というランダマイザの周囲で、ぐるぐると連続的に回していたつもりの指こそがしばしば自分の都合で停止する運動のイリュージョンであったことを喚起させる。

 

宝石から窓の話に入ろう(関与はさだかではないが)。

 

ふたつの個体がある。それらが重なる。「手前にあるもの」と「その背後にあるもの」というプリミティブな位置関係がそうして発生する*1。すると必ずしもそこに近代的な遠近法の尺度を求めなくてよい奥行きの感覚を発見できる。たとえばそれはコンピューター上のウィンドウのデジタルな薄さ。windows上で開くウィンドウは原理的に何百枚重ねようと、「最下層(最も奥に位置する筈のもの)」のウィンドウのサイズも見え方も変化しないでいられる*2。そのとき個々のウィンドウはどれだけ重ねても距離を縮めも広げもしない・・かのような奇妙な容量のデザインになってくる。と同時に、消失点に応じた角度とサイズで事物が配置される遠近法的な奥行きモデルになんら抵触することなしに、ウィンドウが、それぞれ「重なっている」という一点において最小のボリュームを保持してもいるようには感じられてくる。

イメージ間の配置が空間として用意する「奥行き」と、イメージひとつひとつの固有の「厚み」のむずむずするような関係がある。とくにデジタル画像を対象に、永田康祐は「photoshop以降の写真作品──『写真装置』のソフトウェアについて」においてgnckの議論などを経由しつつ、ジョー・ハミルトンのブラウザ上で鑑賞されるビジュアルアート作品「Indirect Flights」(2015年)を紹介してくれていた。

Indirect Flights – Joe Hamilton

ブラウザ上で観者はふたつのレイヤーでシンプルに表現された地─図としての画像をドラッグ/グラブし、スクロールすることで、レイヤー間が発生させる疑似的な奥行きの感覚を養う。だが永田の解説によれば、

ところが、ひとたびスクロールを止めると、この奥行きは減退し、様々な画像がタイル状に並べられたかのような平面的な図像を前にすることになる。つまり、動いている状態では前後の重なりを持っていた画像が、静止した瞬間にその奥行きを喪失するのである。この状態の遷移は、私たちの感じていた重なりが、単にシミュレートされたものであるということを明らかにしている。*3

私もまた同じ感触と出会う。デジタルなウィンドウの厚みについても、たしかに拡大・縮小、アクティブ化、ドラッグといった一連のイメージの操作を介して感じとれる側面はあるかも知れない。直接こうした議論に関連させることは私にはむつかしいものの、近年の写真論の分野では、前川修がスマホに収録される現代的なデジタルな写真イメージの群れに対して、指であらかじめスライドされ次のイメージと連続的な様態であることを指摘しながら「フロー性」と名づけていたのを思いだす*4。これも、デジタルなスペースで、物質的なボリュームが遊動と固定のなかでひとつの輪郭を報せる様態ということではあるだろう。

 

こうしたデジタルな環境が開示してみせる有耶無耶の厚みをなにか魅力的に思うとき、マルセル・デュシャンの有名な「極薄(アンフラマンス)」というフレーズを思いだす。この謎めいた一句について、藤本由紀夫は幼少期に見て強い印象を受けたというステレオ写真の贋物的な立体映像や、稲垣足穂の「薄板界」という世界像を通じて美しい接近の語りを与えていた。

REALKYOTO – CULTURAL SEARCH ENGINE » レクチャー:藤本由紀夫「薄い世界について」

しかし本文中で断りがあるように、極薄といっても、ごく物理的な意味で極限まで薄いということと、むしろ概念的な差異から発生しうる意味空間に根を持つ薄さのようなものでは解釈が変わってくるだろうのもたしかだ。・・・または、それらに同時にまたがるような薄さ。

ステレオ写真も2枚の横並びの写真がありますけど、1枚ずつ見るとほぼ同じ写真に見える。それをビュワーで見ると立体的になるのは、左右に写っているものの位置のわずかなズレが奥行きとなって見えてくるからです。だからアンフラマンスとかなり似ているような気がします。では、そういう見ることができないものを我々はどうやって体験できるかというと、デュシャンは「アンフラマンスな愛撫」と言う。

撫でる、つまり皮膚すれすれに持ってくる。何か掴む際の接触ではなく、すれすれのところを撫でるという微妙な感覚のことを言っているのが面白いと思います。

(藤本由紀夫、同上。強調は引用者)

藤本が正当に引きだしてくるように、なにかにすれすれだという体験が重要だ。火種に手のひらをぎりぎりまで近づけたり、水の表面に指の腹がどこで「ほんとうに」つくか幾度も試してみたりといった境界画定のよろこびは確実にあり、そこからデュシャンの極薄という出来事に(概念の定義づけに勤しむことなく、新たな予感の生成への期待をのみもって)近づくことができる。しかも私の思いこみでは、それらの体験上、実はしばしば皮膚は対象にすでに接触してもいる。実はもう物理的には対象にふれているのに、まだそうと私の体のほうは自信が持てないでいる。物質の次元では確定された筈の抵触は意識や知覚を介していつまでもすれ違う。そうした場合の「すれすれ」のほうが、なにか大事なものを恵んでくれるような思いがある。

*1:もちろん「鑑賞者に対して」・・・ということで主体=視覚をここで早々に導入するはめになる。

*2:特殊なアプローチで疑似的に3次元的なウィンドウの並びに見えるよう設計する、また実際にウィンドウ間の座標を内部で定義づけてみせる環境もあるが、ここではそういう話はしない。

*3:永田康祐「photoshop以降の写真作品──『写真装置』のソフトウェアについて」、久保田晃弘・きりとりめでる共訳編、レフ・マノヴィッチ『インスタグラムと現代視覚文化論』、株式会社ビー・エヌ・エヌ、2018年。強調は引用者。

*4:前川修『イメージを逆撫でする 写真論講義 理論編』、東京大学出版会、2019年。