『フキダシ論』(細馬宏通)を少し読みつけて、気分が変わったのでネットカフェにこもってマンガをあさるか迷ったが、結局、近所の漫画会館に行く。暑いというより日差しが強い。それはどうせ暑いということなのだが光の度が過ぎていると言いたい天気だ。肌が少し汗ばむくらいの、という措辞を思いだす。さいたま市立漫画会館があるのは大宮盆栽村(盆栽町)という地区だ。盆栽と聞くと顔が引きつるが、実は80年代から90年代にかけて劣悪なパーティーアニマルとしてブーイングと名声をこもごもに浴びたヘアメタル界の大王Mötley Crüeのトミー・リーが今や盆栽にドハマりして*1、わざわざ来日の折に訪問するような場所でもある(・・・)。まあそう思えば・・・・・・そう思えば、なんだ? 盆栽なるものへの忌避感から今までここに来れなかったのはたしかだ。

水道局のある並木道を抜けて、しばらくうろうろしながら道案内の板を見つける。ここは北沢楽天の晩年の邸宅を元にした北沢マンガの博物館にもなっている。

入り口のスロープの足元では金魚や赤い鯉が泳いでいる。

床に手と膝をつきながら描いていたであろう日本画のセットを配した仕事場の再現は、自分の家のなかに絵描きの身内がいる状況を少しなまぬるく実感させてくれる。実家のどこかに「仕事場」がある家庭。

 

資料室で手塚治虫新宝島」などを再読したが、参照され続ける冒頭の車の「疾走」場面より、今の私はそのあとのピートくんのクローズアップされた瞳のシークエンスになにか言いたい。あれはカメラが近づきすぎた結果ピートくんの瞳の表面に映っているパンが描かれたコマだと解すべきなのだと思うが*2、瞳の造型の極端な単純化と極大化によって、あたかもピートくんの瞳の「内部から」、すなわちピートくんのあの眼の模様をレイヤーとして「透かして」パンを向こうに見ているように感じさせる。ディスプレイ/ウィンドウ/レイヤーを所与とする世代的な感覚に関係しているかも知れないが。

*1:盆栽好きのモトリー・クルーのトミー・リー、さいたま市大宮盆栽美術館を訪問 - amass

*2:だがその場合、見ているものを映している筈の「白目の領域」という新しい難問が噴きだしてくるのではないか。