キャラクターの顔、すでにひとつの性格を携えて紙の上に現れてしまうキャラクターというものを考える際やはりテプフェールに戻ってみようと、未読だった鈴木先生の論文を読んだ。
鈴木雅雄「キャラクターがやって来る -ロドルフ・テプフェール試論-」(2020年)。
https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/57416
一見些細なことなのだが、テプフェールの作品は扉ページの多くに共通の特徴がある。『クレパン氏』を別にすると何らかの人物像が描かれ、また『ジャボ氏』では主人公がタイトルを背負いつつ、腰に手を当てたいつもの特徴的なポーズを決めているだけだが、他のケースでは一人または数人の人物がこちらを向いて大きな紙片を掲げ、そこに書かれた序文を読者に差し出しているのである。テプフェールの作品では(一九世紀フランス語圏のほとんどの「マンガ」について同じことがいえるが)キャラクターが読者の方に直接視線を向けることはほぼないが、ここでは例外的に人物たちがはっきりと読者を意識し、版画文学という真新しいジャンルに属する奇妙な物語を受け入れてくれるよう、訴えかけているかのようだ。
泣いた・・。
テプフェール「ヴィユ・ボワ氏の恋」(1839年)から。
ちなみに佐々木果さん訳での「ボワ氏」日本語版は、マンガ研究フォーラムの資料室一番下に置いてあり、画像はそちらから引きました。感謝。