アニメ/アニメーション

石岡良治、土居伸彰、前川修 、大﨑智史、中村紀彦、大橋完太郎(司会)「共同討議(特集 アニメーション「超」講義! : 現代アニメーション論の先端に学ぶ)」、『美学芸術学論集』第13号、神戸大学文学部芸術学研究室、2017年

https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/search/002054986/?lang=0&cate_schema=30000&mode=0&list_sort=8

 

とてもおもしろかった。後半少し挑戦的な会場質問があったおかげでおもしろいコメントに繋がったのもよかった。アニメとアニメーションの間にあくまでスラッシュを入れるかどうかや、商業的で集団制作的なアニメと個人制作アニメーション作品の文脈・歴史・信念の違いとかは私の参与範囲だとインディーゲームとかエクストリームミュージックまわりの話で連想するところが。ここらへんすごくむつかしそう。

前川修さんが冒頭でマニアの典型的な構えを「すべてを視聴しなければ、すべての連続性を担保しなければなにも言えないのだからお前ら黙ってろ」と要約してるけど、そういうマニアの振る舞いに反発しつつ積極的に学びにも行く石岡さんのスタンスはかなり私も共感させられるところがあった(いや、私はなにを!と煽られてそういう気分に束の間駆られるだけで、なにかの成果を自分のもとに持ち帰ってこれたりはしないんですけど・・・)。ここで言うマニアの振る舞いも、世間でいちばん極端なかたちを採ったケースなので実際の個人・各集団に対するとそうすっきりできない筈だけど。陰謀論的解釈の話はなるほどと思った。この討議で石岡さんの著書から窺えるスタンスがまたよく判った感じがするし、土居さんのエイゼンシュテインの原形質性の話ももっと聞きたいと思った。

 

石岡 いわゆる日本の商業アニメの世界にも、個人アニメーション作家に近いイマジネーションをキープしながらやろうとしている人は結構いると思っています。たとえば湯浅政明さんはその典型です。ですが、私は一方では、湯浅さんが自分の世界を全面展開したような、『カイバ』(2008)とか独自の企画があるわけですが、そうした作品にはどうしても固有の弱さが感じられてしまう。つまり、個人作家的な様式が出るのは、商業アニメの世界ではしばしば敵意をもたれやすいフォーマットなんですよね。(……)つまり、アニメにおいてクラフトマンシップは讃えられるんだけれども、それがアーティストっぽくなってくると、越権行為というか、「個人の世界イラつく」というような敵意によって潰しにかかられるという状態があると思うんです。(……)

 ファンのなかで作家が一番憎しみの対象になっちゃうという現象って、エンタメには結構ありますよね。好きなキャラクターがどんどんファンの人たちの最大公約数的な思いから逸脱していくと、ある時期で作家が一番憎まれるみたいなことが起きがちです。それを肯定はしてないんだけど、そのあたりの矛盾みたいなものには興味深いところがあるし、(……)

石岡良治発言、前掲書)

 

石岡 作家主義というのは、極論すると、ひとりの作家を見いだしたら名作駄作を区別しないという極論をとるんですよね。その結果、有名な作家の駄作を無理矢理ほめる。これがたぶんシネフィルの一番嫌われる部分ですが、私は逆にこれが面白いと思っている。というのも、名作・駄作という基準が中立化するからです。すると、そのひとつの作家の宇宙のなかで、フィルムの良し悪しの判断が宙吊りになるので、名作至上主義とは逆の効果が得られるんですね。

(同上。強調は引用者)