ユリイカの総特集2・5次元(2015年)を読む。鈴木先生の「愛は二・五次元の属性である」が入っている号でもあるが、テニミュの想起から入る藤原論考のでだしには胸をつかれる。このかきだしには、感動させられる。
ミュージカル『テニスの王子様』には、試合に負けて一人反省中の菊丸が「なんで歌っちゃったんだろう」と自問する場面がある(1)。ほんとうに、彼はなぜ歌ったのだろうか。試合中に歌い踊ったせいで、彼はスタミナ切れで試合に負けてしまったのだ。
(藤原麻優子「なんで歌っちゃったんだろう? 二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」、p.68、前掲書。強調は引用者)
こうして藤原は、おそらく都度、現地で藤原自身により獲得されたアクターたちの言葉の例を増やしてくれる。数え上げることで、その叙述は必然的に美しい行になる。
『忍たま乱太郎』第一作『がんばれ六年生!』には「のんきにダンスなんかしてていいのか、俺は戦うために忍者になった」という台詞があるし、『最遊記歌劇伝-Go to the West-』では観世音菩薩が歌い踊ることを二郎神が「ほんとごめんなさい」と謝ってまわる。「『黒執事』──その執事、友好──」では歌やダンスが演じられたあとにその多くが否定される。「気合を入れようとして歌う必要がどこにある」という身も蓋もない台詞もあれば、歌が終わってみると聞き手のはずの人物はいなくなっており、「坊ちゃんは歌を聞かされることがあまりお好きではない」ととどめを刺す場面もある。戦闘を歌い踊ったあとの「無駄な時間と体力を使ってしまいました」というセバスチャンの台詞は、冒頭に引用した『テニミュ』菊丸の「なんで歌っちゃったんだろう。なんで踊っちゃったんだろう。大石が突然歌って踊るから、俺も…(溜息)あれで充電かなり減ったよね」という台詞と通底する。歌い踊ることを無駄と位置付ける、ミュージカルとしての自己否定である。
(同上、p.70)
なんで歌っちゃったんだろう、とは、ことによると大笑いを誘う。文章にかきおこされると、こんなに切ない。アリストテレスの作用因と目的因の区別が、「なんで歌っちゃったんだろう」の一言で不透明に混ざりこんでゆくようだ。私は急いでテニミュの過去映像を見て会場の反応をおそるおそるたしかめたくなっていく。