天地への用事──『カスミ伝(全)』から

読者の眼には逆さに、高橋ギョウニンベン(「行」の左側のみ表記)先輩の足元に「足の指で天井の/さんをはさんでいる」とテロップがかかれている。一方でフキダシ内のテキストは通例どおりの天地整理に従っていて、私がたは言葉を読むのに支障ない。

唐沢なをき『カスミ伝(全)』p.165、ビームコミックス、KADOKAWA、2015年)

 

引用のコマは『カスミ伝(全)』の「巻之七 ポセイドン・アドベンチャー」(初出:「月刊少年キャプテン」1989年)にあたる。この回は逆さネタの回だ。全編で登場人物が天井から逆さにぶらさがってそのまま活劇する。夏目房之介の解説から引けばまさに「頭に血が上ってしかたない」ワンアイデアに読者を付き合わせる一篇ということになるけれど、ここで言葉の天地にからくりが見える。オノマトペや「よし今だっ」などの手書きの台詞は上下逆に表記され、フキダシでの台詞は通例により上から下にかかれるからだ。そこで次のようなコマの事態が出現する。

(同上、p.164)

うわああああという悲鳴は天井にぶら下がっていた忍者らしく上下逆なのだが、「バキ」「ドグシャ」「バリッ」(おそらく)「ぎゃ」などの落下先のテキストでは「こちら側」の見えに従うように変化している。すると、ここでテキストにいわば天井の論理/地上の論理に応じた振る舞いが分けられている境界線があるかのようだ。その際たとえば、天井から180度の軌跡で後ろに振り戻って親分にブッ刺さるクサリ玉に付された二種類のオノマトペの向き具合の変化はおもしろい。移動や運動は、天地の論理に水平/斜めの論理を介入させたりする。

(同上、p.168)

 

ではこれはどうだろう。先ほどの2コマと同じシチュエーションの落下だが、オノマトペは天井の論理に属して上下逆のままだ。

(同上、p.173)

たしかにこうした描き分けには作者の恣意性(=てきとう)を見繕ってもある程度構わないと思う。構わないのだけれど、論理性自体に口を開いてもらうとべつのことが言えそうでもある。すなわち、オノマトペの逆立の原因がここでは、落下主体の親分が、「どうしたんだ」「さすがに出血多量」とコメントしている手下の忍者たちの心理的な守備範囲にまだ保留されているから、と思いたくなる。天井から落ち、地上にほぼ墜落していても、天井の世界の可聴範囲からその主体(=親分)の動向は外れていないということを、このオノマトペの不可解な逆立は語ってもいないだろうか。いや、もっと抒情的に言うのをおそれないとすれば、向こうにあれよあれよと落ちていく主体の「行く末」を見届けようとするコマ内の周辺人物たちの気遣いが文字の向きの(いわば)調べを執ることも、あるのではないだろうか。

ポセイドン・アドベンチャー」の回の最後のコマは、監禁されていたVIPから発せられる「……」という無言のフキダシになっている。この「……」とは縦書きの場合、正しい天地の向きを問わない/問えないテキストであることに気づかされる。それでもマンガのフキダシに長く「……………」とあると、天地を逆から読むことはほとんどない(場面の深刻さから逃れるように、眼の戯れに、そうしてみることにおぼえがない訳ではない)。むしろ、なぜかふつうの文と同様に、意味取得の量としてはほぼ零な筈の無言をも、やはりその「かきはじめ」から律儀に読んでしまい。