音源の上のカイト──リック・アルトマン二景

リック・アルトマン、行田洋斗訳「ムービング・リップス──腹話術師としての映画」(1980年)。『表象16』(表象文化論学会、2022年)に掲載されている。

以前べつの場所で、Vtuberの配信における声のでどころについてふれた。Vtuberがおしゃべりを行う。だがその声が、画面上のモデルのよく動く口元から発されているとはどうも感じられない。Vtuberがしゃべっている声(=音声物)と、そのVtuberのキャラクター図像としての口元(=音源)とが乖離してみえる*1。しいて言えば、モデルがしゃべっているより、なにか配信画面全体がしゃべっているように感じる、と。

結局「音源」と「音声」の乖離をまともに受けとめてしまうということなのだが、アルトマンの論考は、映画のサウンドトラック*2がそもそもそのようなものだということを腹話術というモデルによって濃い筆致で描きだしている。台詞やスコアはほかでもないスピーカーなどの音源出力装置のある場所から発せられつつ、映像はそれらの音の帰属する先を、その都度役者や街角や車にフォーカスすることによって「そこから」音が聞こえてくるように絶えず観者を説得させようとする。こうして本来の音源の再生場所とはべつの宛先が視聴覚メディアにおいては用意され続ける。私がVtuberの配信の声の場所について感じていた違和感は、モデルの口元が律儀に声にあわせてリップシンクし続けることに駆り立てられていることもあるだろう(リップシンクはこの場合、役者へのカメラのフォーカス──この声を発しているのは誰か?という強調そのもの──と似通った効果を発している)。たしかにワンアイデア的な論考かも知れないし、言われてみれば拍子抜けするような正論でもあるが、ここから配信という経験を深めて考えていける気がしている。

 

もう一編は海老根剛さんがオンラインで公開してくれている、リック・アルトマン「オーディオ・ディゾルヴ」(著書『アメリカのミュージカル映画』中の1節、1987)の翻訳。

アメリカのミュージカル映画のスタイル(リック・アルトマン) – netz_haut

こちらは直近のアニメ作品では「アイの歌声を聴かせて」のような作品鑑賞のかたわらに置き、参考にすることができるだろうと思う。これは、サウンドトラックというものが、いったいどこから作品上のキャラクターにとって「聞こえない」音でありうるのかという存在論的な問題系にも繋がっている。またマンガの分野では、細馬宏通が『フキダシ論』において、あるフキダシの内容が同じコマ内のキャラクターに聞こえ、または聞こえなくなる状況を取り上げている。私がたには見え、あるいは聞こえ、作品上のキャラクターにはそうでないということはいつもリアルなものをつかんでいる。

*1:これは実は、私が「イヤホン」を通じてあらかじめ断絶的に配信を視聴しているから、すなわちセッティングに多く理由を持つという可能性も捨てきれない。

*2:そして、訳者が解題でつけくわえているように、音源の場所を隠蔽するように聞かせる仕組みは、今ではYouTubeなども含め視聴覚メディアのほとんどの範囲をカバーしている。