実況概念へ

『賭博の記号論』(新曜社、2018年)から実況に関連するところを読む。檜垣さんがいるので当然ウマ。

 

杉本「やっぱり馬券が全然売れてないというのはないんで。どなたかがやっぱり買ってらっしゃるんで。一応基本的には全頭をどこかでいってあげないと、俺の買っている馬一回もいってくれなかったとか。そういうことになってもまずいんで。(…)武さんにいわすと、『そんな後ろまでいう必要はあんのか』ってよく怒られましたよね。その後ろにいる馬なんか関係ないだろうって。勝つ馬を実況しないといけないのにと。そんなこといったって、誰かが馬券を買ってるんだから、そういう人のためにはやっぱり一回でも買っている馬の名前をいってあげないとというようなことはよくいって、論争になったことはありましたけど。」

(同書、杉本清植島啓司・坂井直樹(司会・檜垣立哉)「競馬実況における『賭け』──杉本清・元関西テレビアナウンサーを囲んで」)

 

 先にあげたテンポイント阪神三歳ステークス(一九七五年)などはその例だろう。そこで杉本は「独走になった、みてくれこの脚、みてくれこの脚、これが関西の期待テンポイントだ。強いぞ強いぞ」という実況をおこなっている。このあとも「強い強い」ということを繰り返している。もちろんテンポイントのこの競馬は確かに強いのだが、ここで杉本はいうまでもなく、当時の、一九九〇年以降とは真逆の東高西低の時代のなかで、関西からようやく期待の星が現れたということを、まったくもって主観的に表出してしまっている。(……)それはおそらくサッカーボーイ阪神三歳ステークス(一九八七年)の「差が開いた開いた開いた、あのテンポイント以来の着差となるか」に歳月を隔てて共振してもいる。サッカーボーイ世代はオグリキャップを生み出し、いわば競馬界における東高西低が西高東低に転換する契機となったものであるが、杉本はそこに、テンポイントが果たし得なかった夢を実況に放り込む(……)。

(同書、檜垣立哉「付論 杉本的競馬実況についてのメモ」。強調は引用者)

賭博における「夢」の語法について。また実況者の主観性、能動性、行為者性・・・。

 

 実況というのは普通は「流れる」ものだから、むしろ目先をかえて新たな状況を先取りしがちである。あるいは、正確な実況というものを想定すれば(杉本も鼎談のなかで意識しているというように)相当数の馬の名前とその位置をまずはさまざまに言及すべきである。それは当然のことでもある。

 しかし競馬には文脈がある。ある馬が大逃げをしていれば、その馬が潰れるのか逃げ切るのか、後方の馬が差してくるのかどうなのか、その点をみなければならない。後ろの差しが決まりそうなら、視点は自ずと後方重視になるだろう。実況は機械的にはできない。それはあるレースそのものの物語形成と関連しているのだから。だがこれも、(……)

(同上。強調は引用者)

分析哲学的な意味での)「報告文」の問題。眼にした出来事への関与の度合い。非意図的な関与、眼の狂い。一頭の馬の軌跡をスタートから文脈こみで追う語りをするとほかの馬のそれが洩れるのは、ソシュール安川奈緒の、通時的な歴史を見つめているとき共時的なそのほかの群れは視野から除外される(通時性と共時性をともに人間のひとつの視野に容れることはできない)という「比喩」も少し思う。

便宜的に実況という語が使われることになったが、配信者のいわゆるゲーム実況の多くは自分でプレイしているものをまさに自分で語っていくという点で(それはほぼゲーム内容と関係しない雑談でさえありうる)、やはりギャンブルやスポーツの観戦から来る実況概念とそのまま鳬をつけさせることは直接にはむつかしいようにあらためて思う。だが鳬をつけさすのがむつかしいものが実況という言葉だけ共有してしまっているがゆえに語りどころや賭けどころもあるとは言える。しかしその帰結は自分自身で物語を編んでみせる実況者、自分に翻弄される実況者ということで主体性と偶然性の空間の肯定・・・などということが見えており、それをそのまま言っても今あまりおもしろくはならなそうなのでなにかしらの冷や汗を誘うようなtrickを立ち上げてかきなおしたい気持ちもある。