アニソン的思考(「表象」誌より)

読み逃してたのに追いつこうとヒイヒイいいつつ表象16号。この号はアニソンとフレンチフェミニズムカップリング特集ということで、

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石岡良治、輪島裕介、石田美紀細馬宏通橋本一径のアニソン共同討議は大充実。これはほんとにおもしろくて、すぐなにか自分でも考えたりかいたりしてみたくさせられる。石田さんはちょっと前の記事でアニメ・アーカイブ研究センター関連で少しふれたのもあって個人的にタイムリーでもあり。細馬さんがコメントで発言を始めるときれいな議論にはなりえない、ごつごつざらざらした幼少期の記憶の新鮮な語りが熱っぽく始まるので、やっぱりこの場にいてくれてよかったと思うところ。

片っ端からトピックを拾っても、「CMソングの継承先としての初期アニソン、レコード会社間の権利闘争の産物、タイアップの問題」(輪島)、「冒険的な短編アニメとしてのOP・ED、プレスコとアフレコにおける声の力学、劇場版アニメの音声だけをそのまま録音したLPレコードという存在」(石田)、「楽理としては非常に難解なアプローチで編曲されながら絵とシンクロすることで子供にも呑みこめた60年代のアニソン、合唱という形式/シャウトという逸脱」(細馬)、「音と映像が厳密にはけっこうずれていてもミックスされるとそれっぽくハマってみえてしまうシンクロ=MAD感覚の効能」(石岡)と含蓄がある議論が交わされている。

 

石田 もっと過激で、よりはっきりとした例として、『超時空要塞マクロス』(一九八二~八三年)のエンディングがあります。これは実写です。(……)こちらは、劇場作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(一九八四年)のドラマ編です。若い方は特別に録音されたコンテンツなのかなと思われるかもしれませんが、これは劇場版をまるまる音だけ録音したものです。こうしたレコードを何回も何回も聞いて、ファンは絵を思い出すんですね。

(同書。強調は引用者)

イメージの別水準間の移動と機能。この点は先人にいろいろ教えられながら例を増やしていきたい。

 

細馬 石田さんの言ったスポッティングという言葉はいい言葉だと思うんですね。つまり、頭から最後まで全部シンクロしている必要はなくて、あるキーがポン、ポンと置かれていると、あとは勝手に、こっちで埋めちゃうっていう。(……)だから、「ハレ晴レユカイ」が流行ったというのは、ある意味で、全然それまでとは違う現象だったからだと思うんです。あれはアニメのキャラクターの身体が本当に音楽とシンクロしてて、今回の「アニソン」とは違う、別のレベルの出来事だった。

(同上)

輪島 「ダンス」というより「振り付け」の問題なのではないかという気がちょっとしますね。(……)やっぱり音に合っていてもいなくても決まった動きを実行する「振り付け」の問題なのかなっていうふうには思いました。(……)あるリズムや音楽に合わせて身体を動かすということと、決められた動きを忠実に実行するということの間には、結構大きな違いがあると思うんです。今の現在の日本でダンスというと、イコール振り付けになっているっていうことと、(……)

(同上)

音と映像の同期の「不純」(木下千花)をめぐって、そこで動作主としてのキャラクターへ。ダンス/振り付けは考えることが多い。先行言説がすでにあったけど、ハレ晴レユカイのシンクロしすぎるダンスに対して「もってけ!セーラーふく」(らき☆すた)のキャラクターを「追いきれない」カメラのわずかなズレから生じるリアリティとか。

 

細馬 この時代、ミュージカルと人形劇ってやっぱりでかいんですね。特に人形劇ですね。つまり、僕らが思ってる以上に六〇年代のアニメってミュージカルなんですよ。結構、劇中歌が入るんです。「ポッポとチッチの歌」もそうですけども、『狼少年ケン』も結構劇中歌とかあるんですね。なので、今、僕らはそれをキャラソンと呼んでいますが、考えてみるとミュージカルって、登場人物、主人公だけじゃなくてみんな歌うじゃないですか

(同上)

ある部分までアニソンはキャラソンでもあったと思うが(主題歌「〇〇のテーマ」)、キャラソンにしぼった話が次はもっと聞きたい気が。