宮澤賢治「風の又三郎」『宮澤賢治全集 10』、筑摩書房、1967年。
ヨルシカに「又三郎」がある(https://www.youtube.com/watch?v=siNFnlqtd8M)。曲調のよさの明確は措くとして、原作の又三郎、これはどう見ても爽快とはいいがたい。作中で「思いのまま」なのは吹いたりやんだりする風そのものでしかない。なにより父親の転勤というどうしようもない出来事ひとつでいなくなる程度のフラジャイル。オタクの口からでそうな表現は控えるが、いろいろあれだよな三郎。
端的に主体の意志によって操作不可能なものが風であり、子供にとっての親の転勤であり、結局そういうレベルで思いのままにならないものだらけだと言えばそうかも知れないが、この作品自体ではなくもはや派生したイメージにおいて誰かしらが風を呼ぶというのは、少なくともそういう言い方がでてくる動機の条件にあるものは、操ることができないものはもう呼ぶしかないからだろう(言いえないものは指し示すことしかできないように)。しかし呼んで、応えてくれるかどうかはまたべつになる。来ても来なくても呼ぶということ自体にはひとつの成功がある。
北奥羽方言・東北弁の土地間重複の関係で、作中の岩手由来の方言は、大部分(北)秋田弁の理解と馴染みがよく聞こえる。なお私の秋田弁のレファランスについては一部マンガの上へおぼろげに漂った:でどら/ありさ - かるどろだいあろ
「風の又三郎」で言えば、「何した」は「ナした」、「好ぐなった」は「イぐなった」と読んでいる。「わあい」。これは文字では子供の無邪気な歓声に響き、またそれで構わないのだと思うが、秋田では「オイ」と同格の怒声として「ワイ」と叩きつけるように言うので実はそうした強拍をいくぶんか含ませての声でもあるのではないだろうか。もちろん地方間の差異を統合してもしかたなく、もとよりされるべきでもなく、しかし実在の言語体系をすっぱり切ってお話はお話だと手をひらひらさせる真似は私自身の古層から来る東北弁のレファランスの今はうす墨のような流れに対する気の毒もあった。岩手には岩手の語調があり(大正の、昭和の、一地域での、と限定をかける必要もあるかも判らないが)・・・、まるんだであ、など未知の響きと意味合いのメカニカルにはねかえされて、(あ しゃっけでゅあ!)と眼を少し縮める。