「髪が白い」と「白い髪」

平成敗残兵という名の受苦のもとに、すしカルマという女性にはさまざまな徴が与えられる。加齢に伴う身体上のクリシェとして、白髪はそのひとつのようだ。作者は執拗にすしカルマの白髪を増やそうと試みる。だが私がたはそれをただ光っている髪と受けとめることができるのみだ。上に引いたカラー絵もそうだし、本誌連載、すなわち白黒絵におけるすしカルマの髪の白い筋も同じだ(あれを白髪とすなおに了解できる読者たちはたぶんなんらかのステップを私のような者とはたがえて見ているのだろう)。加齢を泣き笑いしつつ笑いのめすようなしかたに、私がとくに頑固だということでそうなっている訳なのだろうか。しかしそればかりでなく、キャラ図像において、黒い髪のなかを通る白い描線はいわゆる白髪の表象であることになぜか失敗し、しばしばひかりのエフェクトとしてしか残らないようなのだ*1。これはエフェクトを所与のものとした年代記を生きてしまっている報い(複数の意味)だろうか。

 

吉本隆明は、宮沢賢治ひかりの素足」読解のなかで*2、一郎たちの前に現れる「立派な大きな人」の容貌描写と、仏像という一般的造形物の色合いを並べ、そこにカラーリングの飛躍を見ている。造形物としての仏像は黒く、褐色だ。賢治の如来的な人物の描写では「まっ白な手」だ。「仏像の黒や褐色の肌ざわりは、作者の受肉化では白いやわらかなものに対応している」。この意味での対応はキャラ図像に関係がある。具体的には、モノクロ漫画に彩色された場合、このキャラはそういう色だったのか、と驚くあの時間のことだ。

*1:これを必ずしも肯定的に言っている訳ではない。キャラクターの髪が白髪と了解する際に「ひとを見て」私が選別している訳だろうからだ。もっとも、その選別の基準は現実的には複雑な経路と結果を持つものでもある。要するに図像系において誰がほんとうに白髪してるように見えるかは自明ではない。

*2:吉本隆明宮沢賢治』、「さまざまな視線」の章、筑摩書房、1989年。