『閑吟集』257番に「その地方の評判の美女の名」として千代鶴子という心に突き刺さるような名前の出没がある*1。その地方の、ということからおそらく「名無しの権兵衛」と同じく仮名というステイタスを持つ綴りだと理解しているが、この仮名は姓名システムに訴える筆頭のひとでもある。千代が苗字、鶴子が名だ(所田鶴子=所・田鶴子のように千代鶴・子と分かれるかも知れないが)。そうではありながら千代鶴子はその用法上、誰か特定の人物に帰属しえない俗称でもある。宮沢賢治「風の又三郎」の初期稿に「風野又三郎」を読むとき、とくに又三郎の自己紹介の弁には、姓名利用的な仮名に基づく困難があらわになる。それが、「可笑しみ」だろうか。
「ああ風の又三郎だ。」一郎と耕一とは思わず叫んで顔を見合せました。
「だからそう云ったじゃないか。」又三郎は少し怒ったようにマントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投げつけながら云いました。(……)
「何て云う、汝の兄は。」
「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎は又機嫌を悪くしました。
「あ、判った。うなの兄も風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの叔父さんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。
『謎解き・風の又三郎』一章「題名の謎」を天沢退二郎は、この「風野」と「風の」の類名/個体名間のレベル差の問題を腑分けしてくれている。だが原文を見る通り、その言い分が通る水準と通りがたい水準とがある。「風野又三郎」で通るのは率直に言ってテクストの水準であり、話し・聞く言葉がそれを「風の又三郎」と取り違えるのはあまりに容易だ。風野! はあ? だから風の、だろう?というような押し問答を私がたは風景として一定貯めてきている(それが、ANIME/アニミの「可笑しみ」だろうか)。「風野」などという選択がそもそも「風の」をもじったようにしか──事実そうなのだが、そして、もじることしか、最初から意識にないからでもある。さらに「風野」の綴りが通ったあとは今度、じゃあ親族一同その同姓同名ではないかと茶化される。兄も風野又三郎だと、自分から明かしたせいでもあるが、個体名を類名に引き戻す技術はここで風野又三郎という姓名を再び「そういう俗称」にしてしまう。初期稿「風野又三郎」における又三郎は「そうそう。そうだよ。僕はどこへでも行くんだよ」と、しかし草いきれのする姓名判断をどこか微妙な繋げ方にして返す。
「この『専売局』と取り違えられた男の話は、「風の又三郎」という物語全体と相似の関係にある。「風の又三郎」とは、ある意味で、三郎という転校生が『風の又三郎』と取り違えられる話なのだ」*3という秦野一宏の「感覚」は明確だが、この意味での取り違えられることには自分の身の丈に合わないプロフィールを負う痛みのようなものが必然的に生じてくる。期待され。そんなんじゃないのに、というあの声はどちらの岸からもやってきて(それが、ANIME/エニメの「愉しみ」だろうか)。「又三郎風の歌をうたふ/ ぼくに風のうたうたへっていふのか」*4。
作品間の連続性を強調しすぎても、作品個々の自律性を重んじすぎても、異稿という精神には間に合わない。癪だが、ほんとうに癪だが、又三郎オルタという言い方が採用できれば気はいくらか休まるだろう(だがどちらがオルタか)。この世界に何度も流れていった、あの「なぜか知れないのに流れる涙」というト書きにそれなら都合もつくだろう。最終稿の又三郎やそのほかの登場人物が知らなくても、異稿の又三郎やそのほかの登場人物の「経験」を紙面が忘れていないことで。比喩的にはキャラクター生成に対する転生や前の世(これ自体が宮沢賢治に頻出の概念装置であることもややこしいが)といった刺激物*5のせいで。たとえば、「ひかりの素足」で楢夫のする「口をゆがめて変な顔」*6は、三郎の口を結んだ表情によく肖(せ)ているのでは?(その直後に事実、「風の又三郎」が妖異の名として本文で挙げられるのにせよ)
そして「さいかち淵」の前に帰還すると、そこで溺れている者が違い、それは名の「代入」がまだえがかれない作品へいつか襲うことを親身に約束し、いつか溺れた者が前方では鏡の向こうの相手となり、以下の書記は、川底の石と泥のように風野又三郎と風の又三郎と高田三郎と、姓も知れない三郎とを踏み混ぜる。
三郎ひとり、上をまわって泳いで遁げたら、しゅっこはすぐに追い付いて、押さえたほかに、腕をつかんで、四、五へんぐるぐる引っぱりまわした。三郎は、水を呑んだとみえて、霧をふいて、ごほごほむせて、泣くようにしながら、
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云った。
嘉助がひとり、上をまわって泳いで逃げましたら、三郎はすぐに追い付いて押えたほかに、腕をつかんで四五へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は水を飲んだと見えて、霧をふいてごぼごぼむせて、
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言いました。
*1:「陸奥のそめいろの宿の 千代鶴子が妹、見目も好ひが 形も好いが 人だにふらざ なを好かるらう」。『梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡 新 日本古典文学大系 56』、岩波書店、1993年、p.251
*2:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1943_30595.html
*3:秦野一宏「宮沢賢治と子ども──『風の又三郎』をめぐって」、海保大研究報告・法文学系52巻1-1、2007年、p.21。https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224851774848
*4:宮沢賢治の創作メモから。天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』、丸善株式会社、1991年、p.81
*5:「あのトラホームの眼のふちを擦する青い石」。宮沢賢治「さいかち淵」
*6:「にわかにそのいたゞきにパッとけむりか霧のやうな白いぼんやりしたものがあらはれました。/それからしばらくたってフィーとするどい笛のやうな声が聞えて来ました。/すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしてゐましたがたうたうどうしたわけかしくしく泣きはじめました」(宮沢賢治「ひかりの素足」、『【新】校本 宮澤賢治全集 第八巻 童話I 本文編』、筑摩書房、p.284)
*7:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/50763_40543.html
*8:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html