ダンピアのおいしい冒険5巻を読み終えいよいよ最終巻に手がかかる。しばらく眼をつむる。
あああいつらはデーヴィス船長と行ってしまったんだっけ。穴あける魚はこわいな。1巻の・・CHAP.4の飛びかかるクックの「悪の躍動感」は今も夢に見てしまいそうだ(真っ黒な口ひげ! 口ひげを真っ黒に塗りつぶすという処理!)。とりわけリングローズと並ぶときのダンピアの幼い顔(実年齢30代なのだが)の絵柄と文脈を思う。しかもダンピアの子供時代の顔はちゃんと子供の顔になっているのだから。アンブローズがいてくれてよかったな! ダン飯に影響を受けた旨は読んでいる間まったく感じさせなかったな。共鳴があるとすれば好奇心がおかしい主人公とかの表層的な造形ではなく、考えて描く/考えながら描くという全体的な姿勢の面なのではないだろうか。それにしてもこの時代はデカルトの死のすぐ後なのだ・・。あの海にさしこむ光のトーンの削り方(グレースケールの画面なので疑似的に、つまりトーンと見まがうほど細密に)はぜんぶ手作業だったのかな。
海と船が毎話でる。描かざるをえないマンガ。海と船を、ああそれにひとと。
連載開始から終了までの間、例のコロンブスのMVの騒動によって、思えばこのマンガにとっては不要なアクティベートがひとつつけくわわってしまった。1巻では当時の私掠船を「共和制にも似た独特の文化を持っていました」と表現してあった。これとはべつに、不当な人種主義をあるしかたで廃棄してしまう軍隊=暴力組織・・・というような方向で共生や友愛の議論を進める場所もある(くわしくはないが。差別が結局はべつの差別に置き換えられてそれがかりそめの和平や平等と見えることもある。いずれ、割り切ってなにか言えるようなところではないだろう)。統治に対するアジール、アジールの内部での統治について、私掠船での暮らしでも問題は噴出する。しかしそれは生きた噴出だ。通常の市民社会ではmisfitな者の集団という。でもひとりひとり、なぜ、どんなmisfitか。そして互いのmisfitの度合いや意味合いを比して群れのなかにもaloneは・・。
未知の大陸に人間がいてほしいと思うものだろうか。新しい人間か、違う人間かが(それらはべつのカテゴリー)。そもそも未知の大陸を前にして、そこに誰かがいてほしい、と思うことは普通なのだろうか。誰かがいるかどうかは気にもされないのが普通だろうか。