新キャラのキャラシート
カラス・スプラッシュ
ビムコ
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吉村和真「〈似顔絵〉の成立とまんが──顔を見ているのは誰か」(ジャクリーヌ・ベルント編『マン美研』所収、醍醐書房、2002年)。読んだのはしばらく前のことだが、重要な論考。
写真技術の普及により誰もが特定の人物の顔貌を容易に確認できるようになったとき、「人物画」は実際の顔貌と見比べられることを多くの大衆読者に対して期待できるようになった。絵に対する「ああ本人によく似ている」とか「あまり似ていないがそれが逆によろしい」といった評価が可能になるにも、まずその対象の顔貌を知られておく必要がある。写真はそれをきわめて広範囲に可能としたイメージ術である。ここで問題になるのは、そのような写真「以前」の人物画のありかたであり、当論考で追及されるのも写真的なイメージの共有を条件に誕生した近代的な似顔絵とそれ以前との断絶や連続である。写真以前の「似顔絵」に属するイメージにおいて重要なのは、実際の顔を知らない読者たちが特定の人物だと同定するための具体的なアトリビュート(画中に描き込まれた名、コメント、着物、書状、武具や旗に記される家紋)であり、論者の言い方を借りれば「顔は人物を判別する記号として役立たない」。武将や役者を描いた似顔絵がいったい本人の顔とどれだけ似ているのか、写真が存在しない以上(多くの者には)たしかめようがなかったに違いない。だが、すると逆に言えば、ここで顔のイメージは似ることの役目をあらかじめ「免除」されたイメージとしてひそかに活動しはじめていたとも思えないだろうか。それは言いすぎているにせよ、写真以前には人物画に描かれたイメージが誰の図像なのかを教えるのはもっぱらアトリビュートの仕事であり、肝心の顔は模写の苦労から解かれ、取り換え可能なある種の汎用性と線の愉しみを帯びていたのかも知れない。
論考の出だしは『絵本水也空』(松屋耳鳥斎、1780年)の飛脚の絵を象徴的に提示する。以下は国立国会図書館デジタルコレクションから再取得したもの。
たしかにどう見ても本人の顔とは「似ていなかった」であろうこの絵は論考を通じて肯定的な意味価の下に新たに置かれていくが、「似なければならないという責務を免除された似顔絵」という矛盾的な様態から来る線の思いきった生を、その驚きを、耳鳥斎の作品からはいくつも発見することができるだろう。浅尾為十郎の大胆なギザ歯や伊達與作の片側をレ型に開放した口の描き方などである。
Twitchで配信されていたRiJの動画がつべに来たのでここ数日食いついて観ている。
驚異的に軽妙なロマンシア(なんとロマンシアの歌つき)、隙あらば差しこむダジャレやホラ話が相方にスルーされ続けることでかえって雪の日の車内ラジオのように心地よく配信をあたためる魔界村、「スーパープレイの意味」と「ミスの意味」が拮抗することの貴重さを教えるスーパーマリオ64、いい意味で胡散臭い語りの力に呑みこまれるTreasure Master、よき理解者たる解説と走者の関係がトレーナーとウマ娘をどこか連想させるティアキン、実直なバグ技解説が堪能できる時のオカリナ3D、素晴らしい記録がいくつもある。
なかでやはりゼルダRTAなどに顕著だが、バグ技を利用したクレイジーなプレイの「解説」は記述的なものと実技の勘が緊密に結びついた出来事であることがたしかめられる。イェスパー・ユールは任意のゲームのジャンルを判断するやり方について、そのゲームの攻略記事を読んでみることを提案している。「最初の選択肢で2番目の答えを選ぶ」「薬草を所有したまま村長に話しかける」など明晰に記述可能でどんなプレイヤーでも同じように解法を得られるものがADV的な攻略記事、ゲーム中のタイミングやプレイスタイルや運動図式によって解法への展開がプレイヤーごとに大きく変わってしまうのがACT的な攻略記事というようなことだったと思う。攻略記事のスタイルを参照することで、逆にそのゲームの帰属するジャンルを照射するという見方が新鮮だった訳だ。
RTA動画ではたとえば「特定の場所で三段斬りを利用して壁抜けし本来ありえないルートを通る(プットアウェイブースト)」などの個々のバグ技が披露され、解説される。それらは段取りや正しい行為選択に属する記述可能な知=ADV的な解法の構成の連鎖からなるものでもありつつ、同時にそれが成功するか否かは「1F単位で入力ミスに繋がる」「カメラ角度や立ち位置の精密な設定を必要とする」というような意味で誰でもできる訳ではない実技的なスキルに強く負ってもいる。しかも乱暴に記述や実技と呼んでいるものも、そもそも特定の場所で壁抜けできることの発見に至るプレイングの蓄積や、そこで壁抜けできることがRTAに利用できるという着想、その場所での壁抜けを組みこんだルートとべつのルートの吟味などの果てしないプレイからでてきたものだろう。記述と実技の濃く複雑な関係をRTAはこうして教えてくれる。
(リンク先の画像はネタバレを含むので注意)
In Stars and Timeの開発者によるキャラ絵解説のためのページを先日読んでいたところ、シフランの顔について、首の上では顎の輪郭を省く処理をポイントとしていた。このポイントは私も重要に感じており、またそうした論点を海外の描き手の口から聞くことが珍しかっただけにおもしろく感じた。とはいえ、日本の描き手の多くと同様、意識はしつつもあえて説明の機会を設けるようなことでもないだけなのだろう。
下は私が描きおこした説明図。
重要なのは下のルートを行きたい場合である。首のラインが即顔の輪郭と同化する、この描き方のニュアンスが判らないひとにはたぶんずっと判らないだろう。私はかなりよく判ると思っている。こう描きたくなるときや、こう描かねばいられないようなときがある。ただそれをうまく言葉に拾えないのだが。
「とっくり型」とも呼べそうな、この顎を省略する記法にも複数のダイアグラムが走っている。いろいろな文脈に至れるし、いろいろな文脈から同じこの記法に入ってこれる。ひとつの象徴はおそらくウエダハジメに長く与えられ、可視的に享受されてもきた類の感性系だろう。キャラクター、図形、デザインの快楽に中空で留まろうとするようなもの。だが当世的な顔のシリーズはもっとべつの心情を、一筆書きモードの顔の上に可能とさせているように映る。ビーンズ系(ほっぺたが飛びだすタイプ)やホームベース系の古典的なキャラ絵の顔に対してお餅系が時間をかけて、たとえばつくみずのような作家の手の上に達成を見たようなものと並走して・・
プレイしはじめて25時間経った。ゲームを終えたあとの生活の上でも、ある種の不断の気持ち悪さを余儀なく引きずって暮らしている。この特有の気持ち悪さはゲーム経験として良質なものとカテゴライズされるであろうそれではある(気持ち悪さとは、べつの言語領域では生々しさや結局のところリアルという言葉で呼びかえられる)。
あらかじめすべてを忘却した主人公と、ひとつのRPG作品を開始する際のプレイヤーの白紙状態の重ね合わせを利用した脚本術については中田健太郎がドラクエシリーズを通してユリイカで論考をかいていた。RPGにおける白紙状態の主人公=プレイヤーについて、日本のフリーゲーム史ではひとまずネフェシエル(2002年)以来の・・・という言い方もゆるされるだろうか。そこで、忘れていたなにかを思いだすという身振りがあたかも生死を分ける一合戦のように見なされ、べつの態度では回想をこそ忘却してみせることで「他なる生」の発明に向かうということもある。だが重ね見のやり方はおそらく忘れていたなにかを必死に思いだしつつ、ふと、必死である自分を含めて今までいた環境すべてが後景にさーっと引いていくように感じる「テレ-」の時間を与える。まさにここにいる自分と、それを「そこにいる自分」と見つめてしまう自分とを、不即不離に同時に感じとりながら運動する主体のありかたを重ね見、二重視という表現で飾っておく。
以前べつにふれた表現を再び取り上げるなら、「広い館を探索するのではなく、探索するから広くなる館」の文脈下にIn Stars And Timeもある。そこでクラシックな2DスタイルのRPG+ループものという条件から来る毎回同じ建物の探索という利点が導入できる。どんな話題もピクセルマップの特定の場所に紐づけられる。場所は記憶をセーブし、上書きする。それをプレイヤーは具体的にキャラクターを操作することで感受できる。あのカウンターの1マスの隙間や、植物の部屋の折り返しで「話されたこと」をもうプレイヤーが忘れることはない。手がおぼえていて、眼がおぼえているからだ。
そういえばゲーム開始直後からパーティーの仲間たちは互いを愛称を交えて話していた。これは当初独特の入りにくさがある。そして、(当然にも)プレイヤーにとっての入りにくさが、逆にパーティー間のやりとりの履歴の長さを訴える。たとえばボニーはオディールからはボニファスと呼ばれる。するとボニファスとは正式名称のようなものだろうか(単なる推測だが、相手を男性・女性のどちら寄りの布置に置いて語るかなどのジェンダー分け記法のようなものによるのかも知れない)。だがまたイザボーからはボンボンとも呼ばれている。こちらは愛称の響きがある。一方、イザボー自体が比較的おぼえにくい名前だとしても、ボニー/ボニファス/ボンボン・・・からはザーと呼ばれ、ときにザーという響きから本来の名前を即興的に思いださせるべくプレイヤーの私に苦心させる(彼のあずかり知らぬことだ)。以上のように、私に手早く名前をおぼえやすくさせるかをキャラクターは気にしないのであり、まさにその気にしないという身振りの往来によってパーティーは親密度を吊り上げてみせる。同じことはプレイヤーが介入する以前のシフランたちに起こった出来事の、その都度の思いだしにも言える。
10時間ほどプレイしてひとつの山場を迎える。突然今まで付き合ってきたパーティーの名前を忘れて絶句する。そんなことが・・。しかし、これが、
ラストダンジョンに突入する直前からお話が切りだされ、ループの周回の拠点となる。私によかったのは、もうすでにパーティーとの長い付き合いをキャラクターたちが経ているというところからゲームが始まること。プレイヤーがなにかする前にキャラクターたちの蓄積や歴史が取り置かれていることを受け入れてほしいという作品からの通達性だ。自分が仲間にしたおぼえがないキャラたちでパーティーは埋まっていて(たとえば「フシギセブン」体験版のラスト参照)、そこに不可思議なほどに「思いが一気にあふれてくる」余地があるのだろうと思う。
文章の瑞々しさは日本語訳の仕事にも多く負っている。もちろん作品の性格に対していろいろな思いや必ずしも肯定的になれない引っかかりもあるけれど、今はこのゲームの手をとめることができない。