プレイしはじめて25時間経った。ゲームを終えたあとの生活の上でも、ある種の不断の気持ち悪さを余儀なく引きずって暮らしている。この特有の気持ち悪さはゲーム経験として良質なものとカテゴライズされるであろうそれではある(気持ち悪さとは、べつの言語領域では生々しさや結局のところリアルという言葉で呼びかえられる)。
あらかじめすべてを忘却した主人公と、ひとつのRPG作品を開始する際のプレイヤーの白紙状態の重ね合わせを利用した脚本術については中田健太郎がドラクエシリーズを通してユリイカで論考をかいていた。RPGにおける白紙状態の主人公=プレイヤーについて、日本のフリーゲーム史ではひとまずネフェシエル(2002年)以来の・・・という言い方もゆるされるだろうか。そこで、忘れていたなにかを思いだすという身振りがあたかも生死を分ける一合戦のように見なされ、べつの態度では回想をこそ忘却してみせることで「他なる生」の発明に向かうということもある。だが重ね見のやり方はおそらく忘れていたなにかを必死に思いだしつつ、ふと、必死である自分を含めて今までいた環境すべてが後景にさーっと引いていくように感じる「テレ-」の時間を与える。まさにここにいる自分と、それを「そこにいる自分」と見つめてしまう自分とを、不即不離に同時に感じとりながら運動する主体のありかたを重ね見、二重視という表現で飾っておく。
以前べつにふれた表現を再び取り上げるなら、「広い館を探索するのではなく、探索するから広くなる館」の文脈下にIn Stars And Timeもある。そこでクラシックな2DスタイルのRPG+ループものという条件から来る毎回同じ建物の探索という利点が導入できる。どんな話題もピクセルマップの特定の場所に紐づけられる。場所は記憶をセーブし、上書きする。それをプレイヤーは具体的にキャラクターを操作することで感受できる。あのカウンターの1マスの隙間や、植物の部屋の折り返しで「話されたこと」をもうプレイヤーが忘れることはない。手がおぼえていて、眼がおぼえているからだ。
そういえばゲーム開始直後からパーティーの仲間たちは互いを愛称を交えて話していた。これは当初独特の入りにくさがある。そして、(当然にも)プレイヤーにとっての入りにくさが、逆にパーティー間のやりとりの履歴の長さを訴える。たとえばボニーはオディールからはボニファスと呼ばれる。するとボニファスとは正式名称のようなものだろうか(単なる推測だが、相手を男性・女性のどちら寄りの布置に置いて語るかなどのジェンダー分け記法のようなものによるのかも知れない)。だがまたイザボーからはボンボンとも呼ばれている。こちらは愛称の響きがある。一方、イザボー自体が比較的おぼえにくい名前だとしても、ボニー/ボニファス/ボンボン・・・からはザーと呼ばれ、ときにザーという響きから本来の名前を即興的に思いださせるべくプレイヤーの私に苦心させる(彼のあずかり知らぬことだ)。以上のように、私に手早く名前をおぼえやすくさせるかをキャラクターは気にしないのであり、まさにその気にしないという身振りの往来によってパーティーは親密度を吊り上げてみせる。同じことはプレイヤーが介入する以前のシフランたちに起こった出来事の、その都度の思いだしにも言える。