中継する記憶、中断させるイメージ

折々気にはしていた知覚現象として、A地点からB地点へと急激に眼を移した際、AとBの間隙(中継点)にあたる部分の見えがよく判らないことになるということがあった。この映像のよく判らなさは夢をうまく思いだせないことにある程度似ていた。

研究者・チームによって議論が多々あるようだが、一応、眼球のサッカード運動に伴うサッカード抑制下の知覚現象にどうも関係が深いようだ。静止したものを見つめているように思えるときでも、人間の眼球はつねに動き続けている(サッカード運動)。しかしその動いている最中の、ふつうに考えれば「ブレ」まくりそうな中継点の映像の束を問題なく意識に収めさせる働きが(仮定的に考えられているところの)サッカード抑制・・・というような簡単な理解をとりあえずおさえてみた。少し見ただけで資料が膨大なので今はそこで引き返した訳だけれども。

 

(説明になってないクショ絵)

 

フォーカスAからBに移るときに私の眼になにかは見えていて、それが非常に問題だということは判っていた。しかしそれはマンガやアニメに表現されるところの速度線のごときものを伴いはしない。

(「鉄腕アトム」 第1話、1963年、手塚プロダクション公式チャンネルから。https://www.youtube.com/watch?v=vpk_GfngimI

 

中継点の映像の「よく判らなさ」はたしかに特有の質を持っているが、それはいわゆる「残像」でさえないように感じられる。ある場合には、移動の比喩よりも、むしろ固定した写真の上に「新しい写真」を透過的に乗せるような経験に近い気さえしてくるほどだ。

結局、勢いをつけ、ある程度距離の離れたポイントに眼を移す、という条件をどこまで共有できるか判らないものの、地点Aを見つめ、さあ次の瞬間には私の眼はもうBの視野領域に安定している。この「次の瞬間」という言葉の喚起におそらく私の伝えたいものすべてがかかっているのだろう。中継点のイメージはそのあと「よく判らなかった」というかたちをとる。