大文字の鉄道、小文字の銀河──新宮一成「宮沢賢治におけるサド的世界の可能性とその彼岸」

カムパネルラとはなにか。それはジョバンニの排泄物である。家庭はつらい。母はジョバンニに冷たくあたる。姉がつくっておいた「訳のわからないトマト料理」などを食べさせるのだから、いじめだ。そして天の川とは息子からそんな恨めしい母への、攻撃的贈与として一挙に吐きだされた乳である、とうとう。そろそろ帰りたくなった読者もいるかも知れないが。

「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか。」

 後でもう一度吟味しなければならないこのセリフは、今はまず銀河鉄道のスピードに乗せつつ味わうことにするなら、ジョバンニの心配が声になったものと聞こえる。ジョバンニは、なかなか牛乳を持って帰らない自分を、母が許してくれるかどうかを心配しているのである。復讐しておきながら、許されることをあてにしている。しかしむろん、許されないことは彼にも分かっている。母を許していないのは自分なのだから、母が自分を許してくれるはずはないのだ。そんな自分がこんなセリフを吐くのは恥ずかしいから、許してもらえるかもしれないカムパネルラに、それを言わせたのである。

 もはや死をもって贖うしかないジョバンニの醜い復讐心は、カムパネルラが肩代わりしてくれることになった。カムパネルラはジョバンニの恥を水に流すために、川にはまって死ぬのである。

 まったく恥の上塗りである。

 恥ずかしく、情けない。*1

冒頭の数節を読めばこの原稿における書き手の構えは察せられる。おそらく新宮は、「銀河鉄道の夜」を精神分析機械にかけるとどういうアウトプットがでてくるかを虚心に見たいと思っていたのだろう。いわばひとつの読解プログラムに律儀に沿っている。だから、わざわざ悪意をもって登場人物たちの内面を詮議し象徴化し歪曲しているのではない筈だ。なおプログラムを走らせている間、「・・・と、いささか戯画的に解釈してきてしまったが」などというような腰の引けたエクスキューズを、ついにどこにも入れないところがえらいと思う(どうしても並みの書き手は言い訳を入れたくなるものだ)。そもそも題名にエクスキューズがなかった。

 

戯画は戯画、行きすぎは行きすぎではあるので、としおらしく今度こちらが言い訳することになるが、それでもプログラムの外へとがった光を見せる読み方がいくつもある。食べられることと官能性を結びつけているのは基本的に正しいと思う。それがおれには気持ちいいのだ、という快楽のレベルで体を差しだしている瞬間は賢治の童話のなかに間違いなくある。「お前に食われれば気持ちいい」という水準は無視するべきではない・・。また「銀河鉄道の夜」での争点のひとつであるところの、宇宙の孔、「石炭袋」=「咳痰袋」という読み替えも、単なる駄洒落以上のものに届いていると思う。

 この童話を含む童話集『注文の多い料理店』の序文は、この「食べさせたい」という欲望をあからさまに語る。そこに含まれた童話が、読者にとって「すきとほつたほんたうのたべもの」になることを願う、というのである。

 すきとおったたべものと言えば、食べ物としてのかすみ、すなわち飢えのことであり、ひいては飢えの中にこめられた怨みのことである。この序文を読んだ東京の読者が、そこから東京と花巻の間に展開されつつあった食糧をめぐる情念と権力の闘争のメッセージを聞き取らなかったとしたら不思議である。*2

 いや、賢治にとってはそうした理屈よりも、食べられることの言うに言われぬ官能的満足を表現することが先決だった。その官能の悦びの中に、自己犠牲に潜在する逆転した権力への意志さえも、許され溶かされてしまうように感じられたのだ。*3

 銀河鉄道の不思議の一つは、りんごの皮などのごみの類が皆うまく消えてしまうことである(この鉄道の周辺では環境問題は起こらない)。カムパネルラも元々ジョバンニの排泄物であったので、りんごの皮と同じように散って消えてしまう。行先は「ほんたうの天上」であるはずだが、そこには、あの「石炭(せきたん)袋」を通ってでないと行けないように思われる。それは「そらの孔」とも言われている。そこには肺を病んで死の床に臥している賢治自身の体が映されている。「咳痰(せきたん)袋!」賢治は今や自分の体をそういう風に見ていたのではなかろうか。*4

*1:新宮一成宮沢賢治におけるサド的世界の可能性とその彼岸」、『無意識の組曲』、岩波書店、1997年、p.62

*2:同上、pp.64-65

*3:同上、p.68

*4:同上、pp.70-71